卒業生の言葉
須原英数教室で学んだ生徒諸君から、後輩にむけてのメッセージ特集です。
10年間須原英数教室で学んで
僕は、小4~1浪までの十年間もの長い間須原英数教室にお世話になりました。(多分、同じ東大寺学園から東大文Ⅰに進まれた原光平先輩に並び塾生最長記録だと思います。)そんな僕の過去の受験体験やアドバイス、塾での思い出等を今回この場で書ければと思います。
僕は須原英数教室に通わせていただく前には、大手進学塾のN学園に通っていました。(通っていたと言っても2ヶ月ほどでしたが)正直、学校が終わってすぐ塾のような生活で、なかなか友達と遊ぶ暇もなかったのが嫌でやめ、母の勧めからこの須原英数教室に通わせていただきました。大手塾の雰囲気しか知らなかった僕にとって個人塾の雰囲気は目新しく、何より授業の途中でお菓子を出してもらえることに喜び、毎週の授業が楽しみで仕方なかったです。それ以前は、塾と聞くと嫌だったのですが先生の面白い授業のおかげで、須原英数教室に通いだしてから今まで、毎週塾に行くことに全く苦痛を覚えませんでした。とび級B受験勉強を始めてからは、須原先生のおっしゃるように勉強をしていました、というよりおっしゃられたことしかやっていません。正直、6年生の頃もがあり友達と遊んだりもしていました。勉強は先生に言われたことだけを集中してやったからこそ、質の高い勉強だったので、実力がしっかりついたと思います。だから入試本番では得意の算数が簡単だったために他に差をつけることが難しく、両親や須原先生には多大な心配をおかけしながらも東大寺学園にも合格できたのだと思います。中学受験を今後むかえる後輩たちは、先生の言葉を信じて言われた通りにやっていれば自ずと結果はついてくると思います。頑張ってください。(正直、中学受験は7年も前なのであまりアドバイスできていません。すいません。)
中学に入ってからはクラブに精を出し、毎回テストで同じような成績ばかりで勉強はそれほど(ほとんどかもしれません笑)やっていませんでした。毎回成績を見せる度に『勉強不足でした』と言い訳ばかりで、先生には『またか』と呆れられていたと思います。高校に入ってからも、クラブに文化祭にと大忙しでこれまた勉強していませんでした。そのままの流れで高校3年生を迎えました。高校3年になっても勉強しない癖は抜けずそのままズルズルと受験を迎えてしまいました。あの頃の自分は非常に考え方が甘く、まぁ勉強してなくても受かるだろうと考えていました。そのままセンター試験となり、センターの出来8割2分で医学部受験を行うには到底足りないような点でした。センターのビハインドを埋めるべく、D判定だった二次試験の非常に難しい京都府立医科大学にのぞみ、案の定不合格で、浪人が決まりました。(センターもろくに取れないのに二次で逆転しようと考えている時点で考え方が甘いですよね。)センター明けに先生に、『君は落ちて浪人すべきだ』と言われました。その頃の僕は非常に腹が立ったのですが、浪人してから思うにあの言葉は正しく、浪人することで自分の甘さや考え方、勉強に対する姿勢が変わったように思います。3月受験が終わっていきなり先生に『浪人生は4・5・6月の三ヶ月をいかに過ごすかが大事だ!』と喝を入れられ、基礎のできていなかったことを自分自身でも不合格から認めていたので、先生のいうことをちゃんと聞き、高校三年の時にやってなかった速読英単語をふたたびやり直し始めました。
4月に入ってから予備校(S台大阪校)が始まりました。その予備校では理系の一番上のクラスで同じ高校の友人が多くいたことから、ある意味高校の頃と変化がないような感じでした。予備校の授業は一番上のレベルのクラスならば、もっと実践的なことから始まると思っていたら、本当に基礎の部分から始まりびっくりしたと同時にやっぱり須原先生のおっしゃるとおり『基礎が大事だ』ということを再認識させられました。それからは、(高校時代はできていなかったのですが)授業の予習・復習を行い、塾では速読英単語をひたすらやり、基礎の勉強を固めていきました。この頃の模試では、高校時代と同じように、阪大がD判定で、なかなかすぐには伸びませんでした。夏休みまでは上述のような生活を毎日送っていたのですが、5月にはいると予備校生活にも慣れ、少し勉強がおろそかになったりもしましたが、教室に行くことで須原先生に『檄』を飛ばしていただき、それほど中だるむことはなかったと思います。
夏休みにはいると予備校は講習という形で日々の授業がなくなり、自分の勉強を始めました。とはいえ、自分の勉強といっても本当に、前期の予備校のテキストを復習したり、速読英単語をやったり、講習の予習・復習をしたりと苦手な科目を重点的に繰り返しただけでほかのことは何もしていないのですけど…。夏休みをどう乗り切るかが合格を左右すると須原先生には度々言われていましたので、自分を信じてただただ『基礎の繰り返し勉強』を行ないました。(しかしさすが理系の一番上のクラス、浪人生は実に優秀な生徒が多く、彼らが新しい勉強を始めたり実践的な勉強をし出したので、正直なところ内心僕は焦ったこともありました。)ここでかなり個人的な話になりますが、予備校で僕の英語の恩師ともいえる先生に巡り合うことができました。僕は昔から英語が苦手でなかなか伸びないことに悩んでいました。その先生の訳し方は独特で、僕には非常にフィットし、今までの疑問が溶けたようでした。その先生にお会いしてからは、先生の訳し方を真似、毎回授業前に訳の添削を行なってもらいました。それ以降は本当に英語を読むのが楽しくなりました。ここでその訳し方の一部をかい摘んで紹介したいと思います。もし、自分に合うなあと思ったら試してみてはどうでしょうか。その先生の訳し方は前から前から訳すのです。翻訳家は英語を話す人の英語を聞いて、すぐに訳を作りますよね?ではその翻訳家は関係詞を訳すときに後ろから戻って訳していると思いますか?いいえ、そういう人は、常に前から前から訳しているのです。『前から訳す』簡単なようですがなかなかうまくできるわけではありません。うまく訳すには前置詞、関係詞等の性質をよく理解することが大事です。あまりうまく説明できませんでしたが、これを読んで何か感じてもらえれば幸いです。特に僕が思うに、中学3年生の頃に須原先生に『語順訳』を習っていたからこそ、僕はその先生のやり方を素直に受け入れることができたのだと思います。
夏休み以降でも、駿台の授業は同じように基礎中心でした。この頃の模試から、苦手の英語が伸びてき、また得意の数学や理科も安定して点が取れるようになり、京都府立医科大学でA判定を取るようになりました。この頃から、僕のクラスの友人でも駿台の授業をサボったりする者も多くなり、なかには油断しているような友人もみかけられました。しかし僕は、模試の結果ひとつ取ってみてもまだレベルの高いクラスの中では真ん中程度だったので油断する暇もなく、更に須原英数教室に通っていることで須原先生の目には見えない・耳には聞こえないものが僕を包んでいましたので(先生は『天使のささやきだ』と言われますが僕は……)、勉強に専念し続けられたと思います。冬休み前になって、秋の模試が返ってきて、初めて阪大医学部でB判定を取ることができました。須原先生には、高校時代から何度も『君は本気を出して勉強すれば阪大でもどこでも行ける』と言われていました。ですが正直、それまでは、全く信じておらず『阪大とかは難しすぎて自分には…』と思っていました。しかし、模試の結果B判定を見ると、阪大が手の届きそうなところに来たような気がしてすごく嬉しかったことと、もう少し現役時代に本気で勉強に打ち込んでいればなぁという思いもありました。そして同時に、生徒の能力をよく把握しておられる須原先生はやっぱりすごいなあと思いました。みなさん、先生が行けるといったところには努力すれば必ず合格します。それを信じて頑張ってください。
冬休みになってからは、予備校の講習でのみ二次対策を行い、あとの時間はほぼセンター対策を行ないました(対策といっても過去問と知識の復習だけですが)。この頃のセンター過去問演習では、だいたい自分の目標としている点は維持できるようになりました。昨年の高3の時の得点仮定と比較すると、自分の実力をしっかり評価できていなかったことがよくわかり、去年の自分の甘さを痛感しました。今、僕は個別指導のバイトで高3の男の子の物理・化学を指導していますが、やっぱり高3の頃の自分と同じように、その子もかなり高い得点仮定をしており少し実現性に欠けているように思います。受験生のみなさんは一度、センター試験でこれくらいは取れるだろうと思う『得点の仮定』をしっかり見直して、本当に実現可能かどうかを確認してみることをおすすめします。
センター試験当日は、同じ会場に友人がいたこともあり緊張することもなく試験を迎えました。僕の受けた地理は難しかったのですが、次の英語に足を引っ張ることもなく、一日目を終え、二日目は得意の理科・数学だったので気楽に受けることができました。
センター試験翌日の自己採点はテストよりも緊張しましたが、苦手の国語が8割をこえていたので安心し、すんなりと自己採点を終えました。結果としては、9割1分で自分の中での最高記録でした。(ちなみにリスニング抜きでは9割3分でした、リスニングは…)しかし、点数が確保できた喜びよりもむしろ、簡単やった気がするから周りはもっと良い成績を取っているのではないか、9割1分の成績で例年通り広島大学医学部の後期に出せるだろうか、とそればかりが気がかりでリサーチが戻って来るまで非常に怖かったです。リサーチが返ってくると自分の予想通りセンターの平均点は非常に高く、後期の広島大学は安全とはいえず、二浪は嫌だったので、鳥取大学に落とさざるを得ませんでした。前期に関しては、阪大、名大でB判定、京府医がA判定で、非常に迷ったのですが一番安全かつ雰囲気が一番自分に合っているように感じていたので京都府立医科大学に決めました。
センターから二次までの一ヶ月はひたすら過去問をやったぐらいしか覚えていません。二次試験の当日は緊張しましたが、センターで多少余裕もあり、去年も京府医を受けていたこともあって落ち着いて試験を受けることができました。物理・化学では物理が例年以上に難しかったのですが、化学でその分を埋め、また数学も2完でき、安心して英語に望むことができました。去年はセンターの分を取り返さないと!と思っていたので焦りがあったと思い思います。センター試験の重要性を痛感し、内心ホットしながら受験できました。合格発表までは落ち着かない毎日に非常に疲れました。合格発表をみたときは本当に嬉しく、開放感でいっぱいでした。自分としては一年間のリベンジに成功し、一年のいい結果だと思います。
これにて僕の浪人体験記は終わりです。現役生のみなさんからすると浪人は一年間無駄にしたと思うかもしれません。しかし、僕は浪人の一年から得るものこそ大きかったと思います。(一応言っておきますが、浪人しろとまでは言っていません。もちろん現役合格を目指してください。)僕個人としては考え方が大人になったように思います。
最後に浪人した時の一年間の心構えを述べて終わりたいと思います。
僕は須原英数教室に通わせていただく前には、大手進学塾のN学園に通っていました。(通っていたと言っても2ヶ月ほどでしたが)正直、学校が終わってすぐ塾のような生活で、なかなか友達と遊ぶ暇もなかったのが嫌でやめ、母の勧めからこの須原英数教室に通わせていただきました。大手塾の雰囲気しか知らなかった僕にとって個人塾の雰囲気は目新しく、何より授業の途中でお菓子を出してもらえることに喜び、毎週の授業が楽しみで仕方なかったです。それ以前は、塾と聞くと嫌だったのですが先生の面白い授業のおかげで、須原英数教室に通いだしてから今まで、毎週塾に行くことに全く苦痛を覚えませんでした。とび級B受験勉強を始めてからは、須原先生のおっしゃるように勉強をしていました、というよりおっしゃられたことしかやっていません。正直、6年生の頃もがあり友達と遊んだりもしていました。勉強は先生に言われたことだけを集中してやったからこそ、質の高い勉強だったので、実力がしっかりついたと思います。だから入試本番では得意の算数が簡単だったために他に差をつけることが難しく、両親や須原先生には多大な心配をおかけしながらも東大寺学園にも合格できたのだと思います。中学受験を今後むかえる後輩たちは、先生の言葉を信じて言われた通りにやっていれば自ずと結果はついてくると思います。頑張ってください。(正直、中学受験は7年も前なのであまりアドバイスできていません。すいません。)
中学に入ってからはクラブに精を出し、毎回テストで同じような成績ばかりで勉強はそれほど(ほとんどかもしれません笑)やっていませんでした。毎回成績を見せる度に『勉強不足でした』と言い訳ばかりで、先生には『またか』と呆れられていたと思います。高校に入ってからも、クラブに文化祭にと大忙しでこれまた勉強していませんでした。そのままの流れで高校3年生を迎えました。高校3年になっても勉強しない癖は抜けずそのままズルズルと受験を迎えてしまいました。あの頃の自分は非常に考え方が甘く、まぁ勉強してなくても受かるだろうと考えていました。そのままセンター試験となり、センターの出来8割2分で医学部受験を行うには到底足りないような点でした。センターのビハインドを埋めるべく、D判定だった二次試験の非常に難しい京都府立医科大学にのぞみ、案の定不合格で、浪人が決まりました。(センターもろくに取れないのに二次で逆転しようと考えている時点で考え方が甘いですよね。)センター明けに先生に、『君は落ちて浪人すべきだ』と言われました。その頃の僕は非常に腹が立ったのですが、浪人してから思うにあの言葉は正しく、浪人することで自分の甘さや考え方、勉強に対する姿勢が変わったように思います。3月受験が終わっていきなり先生に『浪人生は4・5・6月の三ヶ月をいかに過ごすかが大事だ!』と喝を入れられ、基礎のできていなかったことを自分自身でも不合格から認めていたので、先生のいうことをちゃんと聞き、高校三年の時にやってなかった速読英単語をふたたびやり直し始めました。
4月に入ってから予備校(S台大阪校)が始まりました。その予備校では理系の一番上のクラスで同じ高校の友人が多くいたことから、ある意味高校の頃と変化がないような感じでした。予備校の授業は一番上のレベルのクラスならば、もっと実践的なことから始まると思っていたら、本当に基礎の部分から始まりびっくりしたと同時にやっぱり須原先生のおっしゃるとおり『基礎が大事だ』ということを再認識させられました。それからは、(高校時代はできていなかったのですが)授業の予習・復習を行い、塾では速読英単語をひたすらやり、基礎の勉強を固めていきました。この頃の模試では、高校時代と同じように、阪大がD判定で、なかなかすぐには伸びませんでした。夏休みまでは上述のような生活を毎日送っていたのですが、5月にはいると予備校生活にも慣れ、少し勉強がおろそかになったりもしましたが、教室に行くことで須原先生に『檄』を飛ばしていただき、それほど中だるむことはなかったと思います。
夏休みにはいると予備校は講習という形で日々の授業がなくなり、自分の勉強を始めました。とはいえ、自分の勉強といっても本当に、前期の予備校のテキストを復習したり、速読英単語をやったり、講習の予習・復習をしたりと苦手な科目を重点的に繰り返しただけでほかのことは何もしていないのですけど…。夏休みをどう乗り切るかが合格を左右すると須原先生には度々言われていましたので、自分を信じてただただ『基礎の繰り返し勉強』を行ないました。(しかしさすが理系の一番上のクラス、浪人生は実に優秀な生徒が多く、彼らが新しい勉強を始めたり実践的な勉強をし出したので、正直なところ内心僕は焦ったこともありました。)ここでかなり個人的な話になりますが、予備校で僕の英語の恩師ともいえる先生に巡り合うことができました。僕は昔から英語が苦手でなかなか伸びないことに悩んでいました。その先生の訳し方は独特で、僕には非常にフィットし、今までの疑問が溶けたようでした。その先生にお会いしてからは、先生の訳し方を真似、毎回授業前に訳の添削を行なってもらいました。それ以降は本当に英語を読むのが楽しくなりました。ここでその訳し方の一部をかい摘んで紹介したいと思います。もし、自分に合うなあと思ったら試してみてはどうでしょうか。その先生の訳し方は前から前から訳すのです。翻訳家は英語を話す人の英語を聞いて、すぐに訳を作りますよね?ではその翻訳家は関係詞を訳すときに後ろから戻って訳していると思いますか?いいえ、そういう人は、常に前から前から訳しているのです。『前から訳す』簡単なようですがなかなかうまくできるわけではありません。うまく訳すには前置詞、関係詞等の性質をよく理解することが大事です。あまりうまく説明できませんでしたが、これを読んで何か感じてもらえれば幸いです。特に僕が思うに、中学3年生の頃に須原先生に『語順訳』を習っていたからこそ、僕はその先生のやり方を素直に受け入れることができたのだと思います。
夏休み以降でも、駿台の授業は同じように基礎中心でした。この頃の模試から、苦手の英語が伸びてき、また得意の数学や理科も安定して点が取れるようになり、京都府立医科大学でA判定を取るようになりました。この頃から、僕のクラスの友人でも駿台の授業をサボったりする者も多くなり、なかには油断しているような友人もみかけられました。しかし僕は、模試の結果ひとつ取ってみてもまだレベルの高いクラスの中では真ん中程度だったので油断する暇もなく、更に須原英数教室に通っていることで須原先生の目には見えない・耳には聞こえないものが僕を包んでいましたので(先生は『天使のささやきだ』と言われますが僕は……)、勉強に専念し続けられたと思います。冬休み前になって、秋の模試が返ってきて、初めて阪大医学部でB判定を取ることができました。須原先生には、高校時代から何度も『君は本気を出して勉強すれば阪大でもどこでも行ける』と言われていました。ですが正直、それまでは、全く信じておらず『阪大とかは難しすぎて自分には…』と思っていました。しかし、模試の結果B判定を見ると、阪大が手の届きそうなところに来たような気がしてすごく嬉しかったことと、もう少し現役時代に本気で勉強に打ち込んでいればなぁという思いもありました。そして同時に、生徒の能力をよく把握しておられる須原先生はやっぱりすごいなあと思いました。みなさん、先生が行けるといったところには努力すれば必ず合格します。それを信じて頑張ってください。
冬休みになってからは、予備校の講習でのみ二次対策を行い、あとの時間はほぼセンター対策を行ないました(対策といっても過去問と知識の復習だけですが)。この頃のセンター過去問演習では、だいたい自分の目標としている点は維持できるようになりました。昨年の高3の時の得点仮定と比較すると、自分の実力をしっかり評価できていなかったことがよくわかり、去年の自分の甘さを痛感しました。今、僕は個別指導のバイトで高3の男の子の物理・化学を指導していますが、やっぱり高3の頃の自分と同じように、その子もかなり高い得点仮定をしており少し実現性に欠けているように思います。受験生のみなさんは一度、センター試験でこれくらいは取れるだろうと思う『得点の仮定』をしっかり見直して、本当に実現可能かどうかを確認してみることをおすすめします。
センター試験当日は、同じ会場に友人がいたこともあり緊張することもなく試験を迎えました。僕の受けた地理は難しかったのですが、次の英語に足を引っ張ることもなく、一日目を終え、二日目は得意の理科・数学だったので気楽に受けることができました。
センター試験翌日の自己採点はテストよりも緊張しましたが、苦手の国語が8割をこえていたので安心し、すんなりと自己採点を終えました。結果としては、9割1分で自分の中での最高記録でした。(ちなみにリスニング抜きでは9割3分でした、リスニングは…)しかし、点数が確保できた喜びよりもむしろ、簡単やった気がするから周りはもっと良い成績を取っているのではないか、9割1分の成績で例年通り広島大学医学部の後期に出せるだろうか、とそればかりが気がかりでリサーチが戻って来るまで非常に怖かったです。リサーチが返ってくると自分の予想通りセンターの平均点は非常に高く、後期の広島大学は安全とはいえず、二浪は嫌だったので、鳥取大学に落とさざるを得ませんでした。前期に関しては、阪大、名大でB判定、京府医がA判定で、非常に迷ったのですが一番安全かつ雰囲気が一番自分に合っているように感じていたので京都府立医科大学に決めました。
センターから二次までの一ヶ月はひたすら過去問をやったぐらいしか覚えていません。二次試験の当日は緊張しましたが、センターで多少余裕もあり、去年も京府医を受けていたこともあって落ち着いて試験を受けることができました。物理・化学では物理が例年以上に難しかったのですが、化学でその分を埋め、また数学も2完でき、安心して英語に望むことができました。去年はセンターの分を取り返さないと!と思っていたので焦りがあったと思い思います。センター試験の重要性を痛感し、内心ホットしながら受験できました。合格発表までは落ち着かない毎日に非常に疲れました。合格発表をみたときは本当に嬉しく、開放感でいっぱいでした。自分としては一年間のリベンジに成功し、一年のいい結果だと思います。
これにて僕の浪人体験記は終わりです。現役生のみなさんからすると浪人は一年間無駄にしたと思うかもしれません。しかし、僕は浪人の一年から得るものこそ大きかったと思います。(一応言っておきますが、浪人しろとまでは言っていません。もちろん現役合格を目指してください。)僕個人としては考え方が大人になったように思います。
最後に浪人した時の一年間の心構えを述べて終わりたいと思います。
《心構え》
- 基本を大切にすること。基礎がないと応用力もつかない。常に基礎の反復を。
- 授業を大切に、授業に出るからにはしっかり集中して聞く。
- 先生には積極的に指導を仰ぐ。
- 周りは周り、自分は自分、自分のやったことを信じて。
- いろんなことに手を出さなくても同じことの繰り返しで十分に力はつく。
- 勉強でもなんでも楽しんで、メリハリつけて。
塾長からのコメント
この学年の『とび級B』(私国立中学受験教室)には5人の男子生徒がいました。3人が東大寺学園に 2人が清風理Ⅲに進学しました。生徒も保護者も勉強熱心で、深い信頼関係で結ばれており、三位一体となって中学受験に臨めた時代でした。特に谷口敦基君は人懐っこい素直な子でした。東大寺学園の6年間、もう少し本気で勉強に打ち込んでおればまた異なった結果が出ていたかも知れませんが、浪人中の1年間は良く頑張ったと思います。ご両親が挨拶に来られ、『私の家族や身内から将来医者が出るなんて信じられません』と話されました。その折、敦基君とお母さんに原稿の依頼をして、この10年間を振り返ってもらいました。
「浪人体験記」
去年受けられる大学が無く、愛媛大学を落ち、自分で経験して初めて考えの甘さと大学受験の難しさがわかりました。
現役時代、私立大学を合格できる二次力も無く、センター試験が5.2割りだったため、C判定の愛媛大学の前期試験のみで挑みました。結果落ちて、少し経った3月15日の朝に須原先生から電話をいただき、教室へ呼ばれました。そこで壮絶な説教と喝をいれられ、受験は最初の4・5・6月をいかに過ごすかが大事だ!と言われました。そこでこの一年間の勉強方針を決め、僕は土台の基礎が全く固まってないということで先生の言うことを素直に聞き入れ、浪人生らしからぬ数学例題演習の『カード』作りと『速単』のやり直しという『基礎』からやり始めました。ほぼ毎日教室に顔を出しカードは3月中に、速単も4月半ばには1回目が終わりました。
4月になり予備校生活が始まりました。予備校はK塾。授業のスピードと知り合いがほとんどいないということで決めました。やはり浪人なりたて、やる気に満ちて頑張りました。予習に復習、通学・休み時間を利用して速単にと。教室にも毎日顔を出しました。
6月第一回目の模試で愛媛大学A判定もらいましたが、伸びた科目は数学と化学で肝心の英語は伸びていませんでした。それでも勉強が少しずつ身についてきている実感があり勉強するのが楽しかったと思います。
夏休みになり大型休日にはいりました。夏をどうのりきるかが合格を左右するといわれていたのでテキストのやり直しと速単、あとは夏期講習を利用したり…、といったかんじで同じことを繰り返して新しいことは特にはしませんでした。そして2回目の模試で広島大学A判定をもらい四国地方から中国地方へと進出しました。二回目の模試では理系科目が伸びていましたが、やはり英語は伸びませんでした。
9月になると本格的に現役生が勉強に取り組むため、いかに今の成績を維持するかだとよくいわれました。しかし僕の場合はするべきことがたくさんあり、目標の大学に到底とどくような成績ではなかったので上げることだけを考えて勉強しました。そして英語が伸びていなかったので10月の最初の時期に速単をやめ、他の勉強をしました。すると模試で英語がさらに下がり、先生に『速単をしないためだ!』と繰り返し言われたためまた始めました。
冬になりセンター試験にむけてさらに追い込みをかけ、センターの過去問も解きました。そんななか英語の過去問を解いている時でした。なんと突然英文が読めるようになったのです。点数も170点以上とれるようになり、8割をきらなくなりました。本当に驚きでした。
そして、そのおかげで英語に自信がつき、須原先生との12月の第2回教室個人懇談会で、『英語はセンターで8割を取ります!』と言い切りました。懇談後はセンター試験まで地理を毎日しましたが、あっという間にセンター試験当日となりました。
センター試験は試験場が近くということもあり朝はゆっくりできましたが、やはり浪人、あとが無いということで緊張しました。けれども試験が始まると周りの鉛筆の音なども気にならず1日目があっという間に終わりました。2日目になるとやはり自己採点してくる人が結構いて話しが聞こえてきました。個人的に英語のできがいまひとつだったのに周りが英語は簡単だったと言っている話を聞いたので、やはり英語は駄目だったのかと悔しくなりました。試験は理系科目だったので、模試どおりやりました。
次の日、センター試験の自己採点をしようとしましたが緊張と不安でなかなかできず9時ぐらいに心配している英語から採点し始めました。自分の予想とは違い8割ありその安心から残りはすらすらと進みました。予備校や高校へ行き合格判別シートへ記入して、よい結果をまちました。しかし現実は甘くありません。第1志望の神戸大学は合格可能性最終ボーダーにいると予備校の先生につげられました。その結果を持って、須原先生と相談しました。広島や岡山は合格圏内にいたので勧められましたが、父親との問題で家から通える範囲と決められていたので受けられません。さらに合格できるところと父から言われていたので冒険となる大学も受けられません。僕は自分の実力を信じることもできず受ける勇気も無く、神戸大学を受けることを諦めました。『もし現役だったら…』と残念に思いました。受ける大学は京都工芸繊維大学に決め、2次試験に向けてラストスパートをかけました。
全く考えていなかった大学を受けることになり、傾向と対策に苦労しました。しかし幸運なことに苦手な英語が自由英作と和文英訳で45%を占めていて、見事に『速単』が役に立ちました。2次試験までの1ヶ月半はあっという間であまり覚えていません。
2次試験当日事件は起きました。余裕をもって開始1時間前に着く手はずで家を出発し、電車に乗りました。大阪駅の6番線で電車を待っていると、なんと9番線から電車が行ってしまうではありませんか。ちょうど1週間前に下見に行ったにもかかわらず間違えてしまいました。慌てて9番線に行き次の急行に乗っていきました。次に駅に着くとこれまた改札が前とは違うではありませんか。さらに突然の腹痛におそわれトイレに行きました。ひと段落し、出てくるとそこには見たことがない景色が広がっているのです。そう、迷子になったのです。
1時間の余裕があったため間に合いましたが、幸か不幸か、到着したことでの達成感からか、試験は全く緊張せず模試を受けている感覚に近かったです。2日目はきちんと大学に着き前期試験が終了しました。中期試験もあったので前期試験は落ちたと考えて、試験が終わったその日から予備校に行き再び勉強を始めました。しかし集中力は以前ほどありません。合格発表までのこの時期が一番つらかったです。合格発表の日、中期試験と重なっていたので結果を確認したのは家に帰ってからでした。無事大学に合格していてほっとしました。
浪人をしてきちんと勉強をして初めて大学受験を経験したと言えると思います。先生には『去年ダメだった大学に合格できたら1年間よく努力した証拠だ。まして2つ3つ上の大学に合格するのは並大抵の努力じゃできない』と言われていてその言葉通り僕は神戸大学を受験することすらできませんでした。『あの時もっと頑張っていたら…』と言い出すとキリがありませんが、おそらくこの結果は自分ができる最善の結果だったと考えます。
浪人は多額のお金がかかり大変な迷惑をかけた親に感謝し、また学校の先生や須原秀和先生・きよみ先生、そのほかお世話になった方々に本当に感謝しています。
現役時代、私立大学を合格できる二次力も無く、センター試験が5.2割りだったため、C判定の愛媛大学の前期試験のみで挑みました。結果落ちて、少し経った3月15日の朝に須原先生から電話をいただき、教室へ呼ばれました。そこで壮絶な説教と喝をいれられ、受験は最初の4・5・6月をいかに過ごすかが大事だ!と言われました。そこでこの一年間の勉強方針を決め、僕は土台の基礎が全く固まってないということで先生の言うことを素直に聞き入れ、浪人生らしからぬ数学例題演習の『カード』作りと『速単』のやり直しという『基礎』からやり始めました。ほぼ毎日教室に顔を出しカードは3月中に、速単も4月半ばには1回目が終わりました。
4月になり予備校生活が始まりました。予備校はK塾。授業のスピードと知り合いがほとんどいないということで決めました。やはり浪人なりたて、やる気に満ちて頑張りました。予習に復習、通学・休み時間を利用して速単にと。教室にも毎日顔を出しました。
6月第一回目の模試で愛媛大学A判定もらいましたが、伸びた科目は数学と化学で肝心の英語は伸びていませんでした。それでも勉強が少しずつ身についてきている実感があり勉強するのが楽しかったと思います。
夏休みになり大型休日にはいりました。夏をどうのりきるかが合格を左右するといわれていたのでテキストのやり直しと速単、あとは夏期講習を利用したり…、といったかんじで同じことを繰り返して新しいことは特にはしませんでした。そして2回目の模試で広島大学A判定をもらい四国地方から中国地方へと進出しました。二回目の模試では理系科目が伸びていましたが、やはり英語は伸びませんでした。
9月になると本格的に現役生が勉強に取り組むため、いかに今の成績を維持するかだとよくいわれました。しかし僕の場合はするべきことがたくさんあり、目標の大学に到底とどくような成績ではなかったので上げることだけを考えて勉強しました。そして英語が伸びていなかったので10月の最初の時期に速単をやめ、他の勉強をしました。すると模試で英語がさらに下がり、先生に『速単をしないためだ!』と繰り返し言われたためまた始めました。
冬になりセンター試験にむけてさらに追い込みをかけ、センターの過去問も解きました。そんななか英語の過去問を解いている時でした。なんと突然英文が読めるようになったのです。点数も170点以上とれるようになり、8割をきらなくなりました。本当に驚きでした。
そして、そのおかげで英語に自信がつき、須原先生との12月の第2回教室個人懇談会で、『英語はセンターで8割を取ります!』と言い切りました。懇談後はセンター試験まで地理を毎日しましたが、あっという間にセンター試験当日となりました。
センター試験は試験場が近くということもあり朝はゆっくりできましたが、やはり浪人、あとが無いということで緊張しました。けれども試験が始まると周りの鉛筆の音なども気にならず1日目があっという間に終わりました。2日目になるとやはり自己採点してくる人が結構いて話しが聞こえてきました。個人的に英語のできがいまひとつだったのに周りが英語は簡単だったと言っている話を聞いたので、やはり英語は駄目だったのかと悔しくなりました。試験は理系科目だったので、模試どおりやりました。
次の日、センター試験の自己採点をしようとしましたが緊張と不安でなかなかできず9時ぐらいに心配している英語から採点し始めました。自分の予想とは違い8割ありその安心から残りはすらすらと進みました。予備校や高校へ行き合格判別シートへ記入して、よい結果をまちました。しかし現実は甘くありません。第1志望の神戸大学は合格可能性最終ボーダーにいると予備校の先生につげられました。その結果を持って、須原先生と相談しました。広島や岡山は合格圏内にいたので勧められましたが、父親との問題で家から通える範囲と決められていたので受けられません。さらに合格できるところと父から言われていたので冒険となる大学も受けられません。僕は自分の実力を信じることもできず受ける勇気も無く、神戸大学を受けることを諦めました。『もし現役だったら…』と残念に思いました。受ける大学は京都工芸繊維大学に決め、2次試験に向けてラストスパートをかけました。
全く考えていなかった大学を受けることになり、傾向と対策に苦労しました。しかし幸運なことに苦手な英語が自由英作と和文英訳で45%を占めていて、見事に『速単』が役に立ちました。2次試験までの1ヶ月半はあっという間であまり覚えていません。
2次試験当日事件は起きました。余裕をもって開始1時間前に着く手はずで家を出発し、電車に乗りました。大阪駅の6番線で電車を待っていると、なんと9番線から電車が行ってしまうではありませんか。ちょうど1週間前に下見に行ったにもかかわらず間違えてしまいました。慌てて9番線に行き次の急行に乗っていきました。次に駅に着くとこれまた改札が前とは違うではありませんか。さらに突然の腹痛におそわれトイレに行きました。ひと段落し、出てくるとそこには見たことがない景色が広がっているのです。そう、迷子になったのです。
1時間の余裕があったため間に合いましたが、幸か不幸か、到着したことでの達成感からか、試験は全く緊張せず模試を受けている感覚に近かったです。2日目はきちんと大学に着き前期試験が終了しました。中期試験もあったので前期試験は落ちたと考えて、試験が終わったその日から予備校に行き再び勉強を始めました。しかし集中力は以前ほどありません。合格発表までのこの時期が一番つらかったです。合格発表の日、中期試験と重なっていたので結果を確認したのは家に帰ってからでした。無事大学に合格していてほっとしました。
浪人をしてきちんと勉強をして初めて大学受験を経験したと言えると思います。先生には『去年ダメだった大学に合格できたら1年間よく努力した証拠だ。まして2つ3つ上の大学に合格するのは並大抵の努力じゃできない』と言われていてその言葉通り僕は神戸大学を受験することすらできませんでした。『あの時もっと頑張っていたら…』と言い出すとキリがありませんが、おそらくこの結果は自分ができる最善の結果だったと考えます。
浪人は多額のお金がかかり大変な迷惑をかけた親に感謝し、また学校の先生や須原秀和先生・きよみ先生、そのほかお世話になった方々に本当に感謝しています。
「親には言えない留学秘話」
1.はじめに
留学生活・・その言葉から一体いかなることが想像されるだろうか?ある人はブロンドヘアーの綺麗なお姉さんを想像するかもしれないし、はたまた自分の顔より大きいハンバーグやアイスクリームを想像するかもしれない。もちろん、現地の生活に溶け込み流暢に英語を話す自分に思いを馳せ・・・と妄想とは果てしなく尽きないものである。
昨年末に帰国し、私の心の聖地、須原英数教室を訪れた際先生に「中井君今度は留学のことを書いてくれたら・・」と嬉しい機会を頂き、喜んで筆をとることにしました。しかも今回は一歩踏み込んだ内容でとのことなので色々率直に書いていこうと思います。前作は生徒の皆さんが楽しめる内容でしたが、今回は子供を将来留学させようか迷っている両親へ語学留学の真実を知って頂くことを主眼において色々書いております。
約2年半アメリカマサチューセッツ州のボストンに留学してきた結果を今ここに赤裸々にさらそうと思います。留学斡旋会社から訴えられて発禁処分になる前に是非一読くだされば幸いです。
留学生活・・その言葉から一体いかなることが想像されるだろうか?ある人はブロンドヘアーの綺麗なお姉さんを想像するかもしれないし、はたまた自分の顔より大きいハンバーグやアイスクリームを想像するかもしれない。もちろん、現地の生活に溶け込み流暢に英語を話す自分に思いを馳せ・・・と妄想とは果てしなく尽きないものである。
昨年末に帰国し、私の心の聖地、須原英数教室を訪れた際先生に「中井君今度は留学のことを書いてくれたら・・」と嬉しい機会を頂き、喜んで筆をとることにしました。しかも今回は一歩踏み込んだ内容でとのことなので色々率直に書いていこうと思います。前作は生徒の皆さんが楽しめる内容でしたが、今回は子供を将来留学させようか迷っている両親へ語学留学の真実を知って頂くことを主眼において色々書いております。
約2年半アメリカマサチューセッツ州のボストンに留学してきた結果を今ここに赤裸々にさらそうと思います。留学斡旋会社から訴えられて発禁処分になる前に是非一読くだされば幸いです。
2.留学の種類と動機
留学にも色々とタイプがあると思いますが大まかに以下に大別されると思います。
A)民間の語学学校への留学
B)大学付属の語学学校への留学
C)大学、もしくは大学院への留学
私は都合、この全てを経験したのですが、紙面の都合上今回はA)の民間の語学学校での生活を中心に説明したいと思います。
まず、私が留学を決意したのは会計士の二次試験に合格した頃でした。2007年の11月、景気はまだまだ良く私の友人はみな大手の監査法人にすんなり就職していきました。私は親の強い勧めがありあまり乗り気ではなかったのですが、確かに就職するとまとまって留学する機会もないし、せっかくだから留学してみようと思いました。そのとき父に「相続税とはもっとも無駄な税である。相続税で国に金を取られるぐらいなら、今、お前の留学に投資する」と言われました。確かに教育とはもっとも効率的な投資だと思います。がしかし、子孫のために美田を残して欲しかった私としてはちょっぴりがっかりでした。さしあたり語学留学してその後大学院で経営学修士号をとって帰国するという目的を立てました。そのため大学院進学コースがある某有名語学学校を選択し、様々な手続きを経て翌々月の1月初旬にはボストンへの途にありました。
A)民間の語学学校への留学
B)大学付属の語学学校への留学
C)大学、もしくは大学院への留学
私は都合、この全てを経験したのですが、紙面の都合上今回はA)の民間の語学学校での生活を中心に説明したいと思います。
まず、私が留学を決意したのは会計士の二次試験に合格した頃でした。2007年の11月、景気はまだまだ良く私の友人はみな大手の監査法人にすんなり就職していきました。私は親の強い勧めがありあまり乗り気ではなかったのですが、確かに就職するとまとまって留学する機会もないし、せっかくだから留学してみようと思いました。そのとき父に「相続税とはもっとも無駄な税である。相続税で国に金を取られるぐらいなら、今、お前の留学に投資する」と言われました。確かに教育とはもっとも効率的な投資だと思います。がしかし、子孫のために美田を残して欲しかった私としてはちょっぴりがっかりでした。さしあたり語学留学してその後大学院で経営学修士号をとって帰国するという目的を立てました。そのため大学院進学コースがある某有名語学学校を選択し、様々な手続きを経て翌々月の1月初旬にはボストンへの途にありました。
3.留学の罠(1)「病む」ということ
私のことを知っている人はきっと私を、良く食い、よく喋り、よく寝る、明るい人と評してくれるかと思います。自分でもどんなことにもそれほど落ち込まない自信がありました。大学入試の前期試験を落ちた私は、翌日の後期試験の勉強を放棄して先生の家でお茶とクッキーをご馳走になったのを覚えています。先生達と和め、心が落ち着いたせいか翌日の試験では良い結果が得られました。初年度の会計士論文式試験に落ちたときも不思議と落ち込みませんでした。そんな私はもちろんホームシックにもなるわけも無いだろうし、留学に行ったからといって落ち込むことは万に一つもないと確信していました。それにおいしいものを食べれば嫌なことが吹っ飛ぶ単純な性格だったので、この手の心の病にはかなり楽観していました。しかし実際は全く逆でした。日本式の教育になれた私のリスニング力とスピーキング力は、大体、ネイティブのレベルで言うと2歳ぐらいだったかと思います。22歳の頭脳でも、話せるのは2歳ぐらいの子供の内容・・「体は大人、頭脳は子供」と逆コナン状態に陥ってしまいました。言いたいことが言えないもどかしさは本当に苦しかったです。(今でも時々ありますが・・)
何しろ初めてのホームステイですし、一人暮らしすらしたこと無いのに、慣れない異国の地での生活、さらには勉強とまさにあの頃は先の見えない地獄でした。将来に対する漠然とした不安も私の心の病みに追い討ちをかけました。
大体一ヶ月を過ぎたあたりから英語もなんとか話せるようになり友達も増えとても楽しい毎日を過ごしていました。逆にこの頃は人生で始めて、学校のない休日がつまらなく早く学校に行きたいと感じる毎日でした。それは自分が会話のための英語を吸収し、成長を実感できたからかも知れません。はたまた、ちかくにあるハンバーガー屋で巨大なハンバーガーを発見してそれを注文できるようになったからかもしれません。
つまり、どれだけ落ち込まないと思っていても、かなりの確率で病んでしまうものです。ましてや海外留学がはじめてなら尚更でしょう。そういう意味では、先生が考えられている通り、高校時代の夏休み等の長期休暇を利用して一度留学しておくのが良いかもしれません。短期の留学では勉強そっちのけで思いっきり楽しむ・・そんなつもりで気楽に英語に親しむのが後々の留学の布石になるのではないかと思います。
「病む」と書きましたが、病気のような深刻なものではなく不安や焦り、孤独感、自分の無力さに対するやるせなさが混じった程度のものだと理解して頂ければ幸いです。
私のことを知っている人はきっと私を、良く食い、よく喋り、よく寝る、明るい人と評してくれるかと思います。自分でもどんなことにもそれほど落ち込まない自信がありました。大学入試の前期試験を落ちた私は、翌日の後期試験の勉強を放棄して先生の家でお茶とクッキーをご馳走になったのを覚えています。先生達と和め、心が落ち着いたせいか翌日の試験では良い結果が得られました。初年度の会計士論文式試験に落ちたときも不思議と落ち込みませんでした。そんな私はもちろんホームシックにもなるわけも無いだろうし、留学に行ったからといって落ち込むことは万に一つもないと確信していました。それにおいしいものを食べれば嫌なことが吹っ飛ぶ単純な性格だったので、この手の心の病にはかなり楽観していました。しかし実際は全く逆でした。日本式の教育になれた私のリスニング力とスピーキング力は、大体、ネイティブのレベルで言うと2歳ぐらいだったかと思います。22歳の頭脳でも、話せるのは2歳ぐらいの子供の内容・・「体は大人、頭脳は子供」と逆コナン状態に陥ってしまいました。言いたいことが言えないもどかしさは本当に苦しかったです。(今でも時々ありますが・・)
何しろ初めてのホームステイですし、一人暮らしすらしたこと無いのに、慣れない異国の地での生活、さらには勉強とまさにあの頃は先の見えない地獄でした。将来に対する漠然とした不安も私の心の病みに追い討ちをかけました。
大体一ヶ月を過ぎたあたりから英語もなんとか話せるようになり友達も増えとても楽しい毎日を過ごしていました。逆にこの頃は人生で始めて、学校のない休日がつまらなく早く学校に行きたいと感じる毎日でした。それは自分が会話のための英語を吸収し、成長を実感できたからかも知れません。はたまた、ちかくにあるハンバーガー屋で巨大なハンバーガーを発見してそれを注文できるようになったからかもしれません。
つまり、どれだけ落ち込まないと思っていても、かなりの確率で病んでしまうものです。ましてや海外留学がはじめてなら尚更でしょう。そういう意味では、先生が考えられている通り、高校時代の夏休み等の長期休暇を利用して一度留学しておくのが良いかもしれません。短期の留学では勉強そっちのけで思いっきり楽しむ・・そんなつもりで気楽に英語に親しむのが後々の留学の布石になるのではないかと思います。
「病む」と書きましたが、病気のような深刻なものではなく不安や焦り、孤独感、自分の無力さに対するやるせなさが混じった程度のものだと理解して頂ければ幸いです。
4.留学の罠(2)斡旋会社のプロパガンダ
さて実際に勉強を開始した語学学校とはどのようなところでしょうか?毎日、試験の準備に忙しいのを尻目に周りのやつらはドンちゃん騒ぎです。そう、語学学校で真面目に勉強している人なんてほとんどいません。そもそも私が見落としていた点は語学学校には、先生以外に英語を母国語とする人(アメリカ人、イギリス人等)が全くいないことです。クラスメートはたいてい韓国人、台湾人、フランス人、南米人でしょう。よく言えばインターナショナルですが、英語を勉強するベストの環境とは言えません。そもそもボストンに留学した理由は、この語学学校の大阪事務所の方が「ボストンは京都のような学生街で、比較的年齢の高いかたが留学され落ち着いた環境で勉強に取り組めますよ」と言われたからです。はっきり言って超弩級の嘘でした。確かに西海岸に比べたら静かかも知れないが、寮では連日パーティが繰り広げられ、睡眠障害にかかるのは時間の問題でした。
それではホストファミリーならどうでしょうか? ホストファミリーのメリットは言わずもがな、現地の方と一緒に生活する中で言葉や文化についての理解を深めうる点でしょう。それがもし、あなたのホストファミリーが中国人で食事は毎回チャイニーズフード、家での会話は全て中国語だとしたら如何だろうか?これならどこに留学したのかわけが分からなくなるでしょう。この話は私の友達の笑えない経験を、笑える文書に変換させて頂いたものです。私は幸運にもアメリカ人の家庭でしたが、何も言わないとこういう家に飛ばされる可能性は大いにあります。先ほど日本人は留学ビジネスのカモと書きましたが、何も言わない日本人だからカモなのです。アメリカは自己主張の国です。主張しないとどんどん損をしていきます。
先生の質はどうでしょうか?学校の金に手を出して首になる同性愛者の先生、生徒と異性不純交遊する先生、未成年を自宅に招いてアルコールを飲ませる先生等々様々な人がいます。もちろん中にはすばらしい先生もいます。幸い私の先生は志のある方で後々までお世話になりました。ここまで書いて自分で気づきましたが私は相当ラッキーだったのかも知れません・・
次に絶対に気をつけなくてはいけないのはマリファナへの誘惑です。先述したように語学学校には多くの南米人がいます。アメリカ人を含め外人の薬に対する罪に意識は日本人のそれと全くかけ離れています。彼らにとってはマリファナなんて軽いいたずら程度のようにしか考えていません。現にオランダでは合法です。だからといって日本人が吸っていいものではありません。須原英数教室にいる人なら今までそのような環境におかれたことがないので考えたこともないかと思いますが、いざその手の誘惑が来た際には毅然とした態度で断れるような態度が必要です。このようなことを書くこと自体情けない気がしますが、日本の大学も相当蝕まれていると聞きましたので敢えて書きました。
さて実際に勉強を開始した語学学校とはどのようなところでしょうか?毎日、試験の準備に忙しいのを尻目に周りのやつらはドンちゃん騒ぎです。そう、語学学校で真面目に勉強している人なんてほとんどいません。そもそも私が見落としていた点は語学学校には、先生以外に英語を母国語とする人(アメリカ人、イギリス人等)が全くいないことです。クラスメートはたいてい韓国人、台湾人、フランス人、南米人でしょう。よく言えばインターナショナルですが、英語を勉強するベストの環境とは言えません。そもそもボストンに留学した理由は、この語学学校の大阪事務所の方が「ボストンは京都のような学生街で、比較的年齢の高いかたが留学され落ち着いた環境で勉強に取り組めますよ」と言われたからです。はっきり言って超弩級の嘘でした。確かに西海岸に比べたら静かかも知れないが、寮では連日パーティが繰り広げられ、睡眠障害にかかるのは時間の問題でした。
それではホストファミリーならどうでしょうか? ホストファミリーのメリットは言わずもがな、現地の方と一緒に生活する中で言葉や文化についての理解を深めうる点でしょう。それがもし、あなたのホストファミリーが中国人で食事は毎回チャイニーズフード、家での会話は全て中国語だとしたら如何だろうか?これならどこに留学したのかわけが分からなくなるでしょう。この話は私の友達の笑えない経験を、笑える文書に変換させて頂いたものです。私は幸運にもアメリカ人の家庭でしたが、何も言わないとこういう家に飛ばされる可能性は大いにあります。先ほど日本人は留学ビジネスのカモと書きましたが、何も言わない日本人だからカモなのです。アメリカは自己主張の国です。主張しないとどんどん損をしていきます。
先生の質はどうでしょうか?学校の金に手を出して首になる同性愛者の先生、生徒と異性不純交遊する先生、未成年を自宅に招いてアルコールを飲ませる先生等々様々な人がいます。もちろん中にはすばらしい先生もいます。幸い私の先生は志のある方で後々までお世話になりました。ここまで書いて自分で気づきましたが私は相当ラッキーだったのかも知れません・・
次に絶対に気をつけなくてはいけないのはマリファナへの誘惑です。先述したように語学学校には多くの南米人がいます。アメリカ人を含め外人の薬に対する罪に意識は日本人のそれと全くかけ離れています。彼らにとってはマリファナなんて軽いいたずら程度のようにしか考えていません。現にオランダでは合法です。だからといって日本人が吸っていいものではありません。須原英数教室にいる人なら今までそのような環境におかれたことがないので考えたこともないかと思いますが、いざその手の誘惑が来た際には毅然とした態度で断れるような態度が必要です。このようなことを書くこと自体情けない気がしますが、日本の大学も相当蝕まれていると聞きましたので敢えて書きました。
5.留学の罠(3)言い訳だけがうまくなる留学と経験という名のオブラート
私は、留学中に初期の目的を失ってその目的を達成できないまま帰国していく人を多く見てきました。こういった人たちの多くが口にすることは「留学はすごくいい経験だった」という言葉です。韓国人やコロンビア人とお酒を飲むことは確かに経験かも知れませんが、彼らはこの「経験」という言葉を自分の失敗を綺麗に包み隠して美化するためのオブラートとして使っているだけなのです。そして、なぜ英語が上達しなかったのかを弁明するための言い訳だけがうまくなるのです。「ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語はラテン語を基礎とする親戚みたいな言語である。他方、日本語はラテン語をベースにしていないから、英語となんら共通項がない。つまり、日本人にとってはヨーロッパ人に比べ英語学習は難しいものであり、留学で成果が上がらないのも致し方ない・・」この様な、もっともらしい言い訳が、19歳の大学生の口から滑らかにこぼれ落ちるのです。君はいつから言語学者になったのかと疑いたくなりますが、英語よりも言い訳がうまくなるのが語学留学なのです。日本人が英語学習に不向きなのは地政学的、歴史的、言語学的にも正しいかとは思いますが、いまさらどうすることもできない与件を嘆くよりも、いかにそれを打ち破る努力をするかという建設的な考えはそこには微塵もないのです。私が語学学校時代、そして今も噛み締めている言葉は「怠るものは不平不満をいい、努力するものは希望を語る」です。いつの頃からか須原英数教室に掲げられていたあの言葉には何度も助けられました。
また、日本人(特に女性)は何かと群れや徒党を組んで集団の中に自分の居場所と心地よさを求める傾向があると思います。日本ではそれでよいかもしれませんが、海外に行って語学を勉強する際、日本人ばかりでつるむのは如何なものかと思われます。結局海外にまで来て日本人とばかりとつるんでいる人はかなりの数です。だからといって日本人にまで英語で会話することには大反対ですが、適度な距離が必要だと思います。
留学というものが身近になっている昨今、単に語学学校に留学しただけでは何の付加価値も生まないのが現状だそうです。就職活動をしている友人の話では、今までに何を頑張ってきたか?と採用担当に聞かれて留学と答えると「またか!留学頑張ったって言う子とクラブ・サークル頑張りましたって子ばっかりやな、もう聞き飽きた」と言われたそうです。ですので、留学するに越したことはないですが、何か形になるようなものを残す必要があるのではないのでしょうか?例えば飛びぬけて素晴らしい英語の試験のスコアだとか、大学、大学院を卒業したとか等々・・・何か他の人と違うことをしないと留学を成功させることは難しいと思います。
6.日本の英語教育に対する私見
この教室便りは様々な学校の先生も読まれているとのことですので、私が英語の勉強法について私見を述べても恥ずかしいだけですが、私の高校時代の失敗が教室の後輩の何かの役に立てばと思いこの章を書くことにしました。
中学、高校での英語の勉強は、高校や大学への入学試験を合格するために行われているといっても反論される方はそう多くはないかと思います。つまり、第一にリーディング、第二にライティング、第三にリスニングという優先順位です。少なくても私の中高一貫の英語教育の中で外国人とコミュニケーションをとるという英語本来の役割のために英語を勉強していると感じた機会は皆無でした。高校の評判、評価も大学合格者の実績で評価されるので、日々の授業が試験のためのものになってしまうのは仕方ないことです。ですが、どうせなら試験だけでなく自分の英語のためにも役立つ勉強を行うのが賢明だと思います。須原先生が常々学校の授業と自分の勉強を大事にしろとおっしゃっている通りのことですが・・。
ではそのような一挙両得的な英語の学習法とは何か・・・既にお気づきでしょうが速読英単語の暗記だと思われます。僕は留学時代、遂に速単の有用性に気づき、実家から母親に急遽昔に使っていた速読英単語を送ってもらったほどです。やはり、英語の会話を上達させようと思えば、ある程度の文章をまとまって覚える必要があります。そもそも外国語なのですからある程度まとまった表現を覚えこむ必要があるのではないでしょうか?会話の流れの中で自然とこの動詞はこの前置詞と結びつくんだとか、不定詞が必要なんだといったことが自然に身につくのです。単語と単語の意味しか書いてない単語帳からはこのような英語同士の相性が学べるといったことはまずありません。
僕が勘違いしていたのは、高校時代あの長い文章さえ覚えれば成績が上がるのだろうと誤解していたことです。文法を全く理解せずに、ただお経のようにあの文章を覚えるのはただの苦痛でした。もう一度やり直せるなら英文法を復習して、しかる後に速単の各文章にそれらの文法がいかに使われているかを詳細に理解してから暗記に取り掛かりたいと思います。分析しながらだと覚えるのに時間がかかりますが、忘れるまでの時間が長くなりもします。速読英単語は、読む、書く、聞く、話すという全ての要素を向上させうる素晴らしい教材だと思います。(僕はZ会の回し者ではありません、一応・・)
7 最後に 赤点からの留学
今から8年以上も前のことです。高校二年の英語の試験で21点をとりました。もちろん赤点(欠点)でした。忘れもしない仮定法の範囲でした。その後の須原先生との懇談ではこの21点の実物の答案用紙を前にお叱りを受けました。しかもその場でもう一度問題を解かされたのですが、私は当然やり直しもしていませんでした。先生の完全なる奇襲でした。臭いものには蓋ではありませんが、自分の中で21点は無かったことにしようと決めていたのでしょう。そんな中で、一問一問先生に詰問された私の心境はまさにパールハーバーを攻撃された米軍以上の動揺であったと記憶してます。
21点に恥じることなく堂々とやり直しをしていない私に対し、先生の怒りは火に油を注ぐどころの騒ぎではなく、原子力発電所をひっくり返したような状態でした。その時の懇談は父が参加しており、父は私の成績のことには細かく首を突っ込んでいませんでしたから我が息子の英語のできなさにはさぞ驚いたことと思います。それもあってか懇談が終わって帰る道中で「情けない」といわれたのを覚えています。私自信も情けないと思いましたが、今となって思うのは恥をかかして父に申し訳ないことをしたなぁということです。そんな父も、ましてや僕も、アメリカの大学院を卒業できるとは思いませんでした。私が大学院を卒業できたのは、応援(資金的にも)してくれた父、母のおかげです。下の写真は肥大化したハリーポッターのコスプレではなく、卒業式での私と父です。21点からここまで成長したのかと思うと少しはあの日の不名誉を挽回できたのかなぁとも思います。21点をとって叱られたからこそ、卒業にむけて努力できたのだと思います。
勉強の父である須原先生にもいまだに感謝しております。私は幸いにも二人の父を持つことができ本当に恵まれていると感じる毎日です。本当は大学院でのできごとや、英語力が伸びた時期、アメリカ人の性格、現地で楽しかったこと、どうすれば語学留学を成功させることができるか?を書こうと思っていたのですが、今回は安易な語学留学
に対する警鐘だけとなってしまいました。このような貴重な機会を頂いた先生に改めて感謝しつつ、筆をおきます。
誤字、脱字、クレーム、質問その他は以下まで。
nakaimasayoshi@gmail.com
この教室便りは様々な学校の先生も読まれているとのことですので、私が英語の勉強法について私見を述べても恥ずかしいだけですが、私の高校時代の失敗が教室の後輩の何かの役に立てばと思いこの章を書くことにしました。
中学、高校での英語の勉強は、高校や大学への入学試験を合格するために行われているといっても反論される方はそう多くはないかと思います。つまり、第一にリーディング、第二にライティング、第三にリスニングという優先順位です。少なくても私の中高一貫の英語教育の中で外国人とコミュニケーションをとるという英語本来の役割のために英語を勉強していると感じた機会は皆無でした。高校の評判、評価も大学合格者の実績で評価されるので、日々の授業が試験のためのものになってしまうのは仕方ないことです。ですが、どうせなら試験だけでなく自分の英語のためにも役立つ勉強を行うのが賢明だと思います。須原先生が常々学校の授業と自分の勉強を大事にしろとおっしゃっている通りのことですが・・。
ではそのような一挙両得的な英語の学習法とは何か・・・既にお気づきでしょうが速読英単語の暗記だと思われます。僕は留学時代、遂に速単の有用性に気づき、実家から母親に急遽昔に使っていた速読英単語を送ってもらったほどです。やはり、英語の会話を上達させようと思えば、ある程度の文章をまとまって覚える必要があります。そもそも外国語なのですからある程度まとまった表現を覚えこむ必要があるのではないでしょうか?会話の流れの中で自然とこの動詞はこの前置詞と結びつくんだとか、不定詞が必要なんだといったことが自然に身につくのです。単語と単語の意味しか書いてない単語帳からはこのような英語同士の相性が学べるといったことはまずありません。
僕が勘違いしていたのは、高校時代あの長い文章さえ覚えれば成績が上がるのだろうと誤解していたことです。文法を全く理解せずに、ただお経のようにあの文章を覚えるのはただの苦痛でした。もう一度やり直せるなら英文法を復習して、しかる後に速単の各文章にそれらの文法がいかに使われているかを詳細に理解してから暗記に取り掛かりたいと思います。分析しながらだと覚えるのに時間がかかりますが、忘れるまでの時間が長くなりもします。速読英単語は、読む、書く、聞く、話すという全ての要素を向上させうる素晴らしい教材だと思います。(僕はZ会の回し者ではありません、一応・・)
7 最後に 赤点からの留学
今から8年以上も前のことです。高校二年の英語の試験で21点をとりました。もちろん赤点(欠点)でした。忘れもしない仮定法の範囲でした。その後の須原先生との懇談ではこの21点の実物の答案用紙を前にお叱りを受けました。しかもその場でもう一度問題を解かされたのですが、私は当然やり直しもしていませんでした。先生の完全なる奇襲でした。臭いものには蓋ではありませんが、自分の中で21点は無かったことにしようと決めていたのでしょう。そんな中で、一問一問先生に詰問された私の心境はまさにパールハーバーを攻撃された米軍以上の動揺であったと記憶してます。
21点に恥じることなく堂々とやり直しをしていない私に対し、先生の怒りは火に油を注ぐどころの騒ぎではなく、原子力発電所をひっくり返したような状態でした。その時の懇談は父が参加しており、父は私の成績のことには細かく首を突っ込んでいませんでしたから我が息子の英語のできなさにはさぞ驚いたことと思います。それもあってか懇談が終わって帰る道中で「情けない」といわれたのを覚えています。私自信も情けないと思いましたが、今となって思うのは恥をかかして父に申し訳ないことをしたなぁということです。そんな父も、ましてや僕も、アメリカの大学院を卒業できるとは思いませんでした。私が大学院を卒業できたのは、応援(資金的にも)してくれた父、母のおかげです。下の写真は肥大化したハリーポッターのコスプレではなく、卒業式での私と父です。21点からここまで成長したのかと思うと少しはあの日の不名誉を挽回できたのかなぁとも思います。21点をとって叱られたからこそ、卒業にむけて努力できたのだと思います。
勉強の父である須原先生にもいまだに感謝しております。私は幸いにも二人の父を持つことができ本当に恵まれていると感じる毎日です。本当は大学院でのできごとや、英語力が伸びた時期、アメリカ人の性格、現地で楽しかったこと、どうすれば語学留学を成功させることができるか?を書こうと思っていたのですが、今回は安易な語学留学
に対する警鐘だけとなってしまいました。このような貴重な機会を頂いた先生に改めて感謝しつつ、筆をおきます。
誤字、脱字、クレーム、質問その他は以下まで。
nakaimasayoshi@gmail.com
塾長からのコメント
中井君は私のことを『勉強の父』『二人の父』と書いてくれています。嬉しくてたまりません。感動です。私にも同じ経験があるからです。今回の『教室だより』はすでに60ページを超えようとしていますが、これを機会に、私自身のそのことについて書かせて頂きたいと思います。
実は私にも心の中で父と思い母と慕う方がいます。私の生き方を見えない糸で導いていただけているように感じます。父と思っている方は、岡山大学の恩師、阿部浩二先生です。大学に入って最初の4年間は、仕送り・特別奨学金・近くに住んでいた叔母からのお小遣いなどで、経済的には恵まれて豊かな大学生活でした。しかし、勉強に対してはいい加減で、奨学金を止められないように適当に勉強をする、賞金稼ぎのような有様でした。私にとっての奨学金は『奨遊金』で、当時は3年生から専門課程が始まりますが、半年たった時にも専門書である教科書すらほとんど本箱にはない状態でした。それでも後期から始まるゼミには、司法試験希望者が一番多く集まる『阿部ゼミ』に、何とか加えていただけました。それが阿部先生との出会いです。
4年生になって就職活動も始まり、先生から『須原君は就職をどうするの?』と尋ねられ、後先のことを考えずに、かっこ良く『僕は就職をしません』と答えていました。半年ほど経って、日本銀行の重役らしいお二人が先生の研究室を訪ねられ、私のことが話題にのぼって『是非欲しい』と言って下さったそうですが、先生は『君は就職する気がないからお断りしておきました』とあっさりと言われたことは、今でもよく覚えています。勉強しなかった割には、専門科目23単位の内20単位ほどは、『優』でそろっていたからだと思います。
後半の4年間は、奨学金が無くなり、親からの仕送りを断り、家庭教師で食い繋ぎながらの『苦学生』になり、生活は一変しました。先生のお勧めで大学に在籍することにいたしましたが、明治生まれの父からは『落第』という思いしかなく、しばらくは口をきいてもらえない時期もありました。『須原君、君は大学院の授業料は払えないだろう?』『はい、払えません。』『じゃ私に任せておきなさい。修士論文は書かなくてもいいね。』と先生は言われて、それから大学院の演習のいくつかに、無料の聴講生として参加させていただくことになりました。先輩や仲間の話によると、阿部先生が他の先生方に、私のことをお願いして下さっていたそうです。法律的なもの考え方や学問のご指導ももちろんですが、陰になり日向になり先生には口で言い表せないほどお世話になりました。
著作権では日本の第一人者の先生です。法律の世界ではご恩返しが出来ませんでしたが、教育に携わる者の一人として、阿部先生の学者として教育者としての人となりを、少しでも手本にさせていただこうと微力を尽くしています。80歳を超えられた今でもお元気で、毎週のように東京や外国に出張されているご様子です。一年に一度くらいですが、毎年先生のお宅にご挨拶にお伺いして、『元気のおすそわけ』をいただいております。
母に当たる方は、信貴山口のところで60年以上開業医をなさっておられる岡本シモ先生です。25年余り私の家族の面倒を診ていただいています。長男正光が生まれた頃、山本駅前で腕が良いと結構評判の小児科がありました。正光も何度かお世話になったのですが、どうも私の考えとはずれがあって、とうとうその先生と軽い喧嘩になりました。ある保護者のお勧めで、訪ねたのが岡本医院でした。正光が1歳半ほどで、それが岡本先生との出会いでした。診察室の扉の向こうで、妻のきよみが大きな声で叱られています。『怖い先生だなぁ』と思って、私は話に耳を傾けていました。先生のお話は確かにもっともな話なのです。『新米の親』である私と妻が気付かなかったことを教えていただけているのです。帰りの車の中で岡本先生が女医さんだと妻から教えられ、もう一度驚いたことをよく覚えています。
それから半年か1年たった頃、正光が夜中の1時過ぎに突然起きて、『耳が痛い!』と言って転げまわりました。当時60歳を超えておられた先生を、真夜中に起こすのは許されないと思い、電話で救急病院をいろいろ当たりました。八尾市には耳鼻科どころか小児科もなく、大阪中央救急病院に小児科がありましたので、後部座席に正光を乗せ、車をぶっ飛ばしました。昼間1時間はかかるところ、真夜中の高速道路ゆえ、20分ほどで着きました。翌朝岡本先生のところに診察に行き、事情を説明しますと先生は、『なんで電話してこなかった!私は毎晩2時ごろまでは起きています。この子は私の患者やないか!』と一喝されました。叱られているはずなのに、私は嬉しくて目の奥が熱くなったのを今でも忘れられません。診療所と自宅の電話番号を変えていたり、診療が終われば自宅とは別のマンションに居場所を変えたりして、必要な時に役に立たない医者が多い中で、『何と医者としての使命感に燃えられた方なんだろう』と思いました。『この先生に私と私の家族の命を託そう』その時、私はそう決心をしました。
私は医者ではありませんが、教育者としての『使命感』を忘れないようにしようと、岡本先生を手本にさせていただいています。正光は医師になって4年目、血管外科医としての道を歩んでいます。睡眠時間も十分とれないまま手術の執刀に追われている様子です。正光が医学の道を志すのに、私の無二の親友で無医村の医師として活躍していました大重宗比古君(過労が原因で47歳の若さで急死しました)や、幼い時からお世話になっていました岡本先生の影響が大きかったと思います。岡本先生も80歳半ばのご高齢ですが、97歳になります認知症の進んだ母の往診に、毎月お越しいただけるのが私としては楽しいひとときでもあります。
教え子が大人になってからも『先生』と思ってくれる先生が良い先生なんです、と京大の西村和雄先生が話しておられたことがありました。そういう先生を目指して精進したいと思います。
実は私にも心の中で父と思い母と慕う方がいます。私の生き方を見えない糸で導いていただけているように感じます。父と思っている方は、岡山大学の恩師、阿部浩二先生です。大学に入って最初の4年間は、仕送り・特別奨学金・近くに住んでいた叔母からのお小遣いなどで、経済的には恵まれて豊かな大学生活でした。しかし、勉強に対してはいい加減で、奨学金を止められないように適当に勉強をする、賞金稼ぎのような有様でした。私にとっての奨学金は『奨遊金』で、当時は3年生から専門課程が始まりますが、半年たった時にも専門書である教科書すらほとんど本箱にはない状態でした。それでも後期から始まるゼミには、司法試験希望者が一番多く集まる『阿部ゼミ』に、何とか加えていただけました。それが阿部先生との出会いです。
4年生になって就職活動も始まり、先生から『須原君は就職をどうするの?』と尋ねられ、後先のことを考えずに、かっこ良く『僕は就職をしません』と答えていました。半年ほど経って、日本銀行の重役らしいお二人が先生の研究室を訪ねられ、私のことが話題にのぼって『是非欲しい』と言って下さったそうですが、先生は『君は就職する気がないからお断りしておきました』とあっさりと言われたことは、今でもよく覚えています。勉強しなかった割には、専門科目23単位の内20単位ほどは、『優』でそろっていたからだと思います。
後半の4年間は、奨学金が無くなり、親からの仕送りを断り、家庭教師で食い繋ぎながらの『苦学生』になり、生活は一変しました。先生のお勧めで大学に在籍することにいたしましたが、明治生まれの父からは『落第』という思いしかなく、しばらくは口をきいてもらえない時期もありました。『須原君、君は大学院の授業料は払えないだろう?』『はい、払えません。』『じゃ私に任せておきなさい。修士論文は書かなくてもいいね。』と先生は言われて、それから大学院の演習のいくつかに、無料の聴講生として参加させていただくことになりました。先輩や仲間の話によると、阿部先生が他の先生方に、私のことをお願いして下さっていたそうです。法律的なもの考え方や学問のご指導ももちろんですが、陰になり日向になり先生には口で言い表せないほどお世話になりました。
著作権では日本の第一人者の先生です。法律の世界ではご恩返しが出来ませんでしたが、教育に携わる者の一人として、阿部先生の学者として教育者としての人となりを、少しでも手本にさせていただこうと微力を尽くしています。80歳を超えられた今でもお元気で、毎週のように東京や外国に出張されているご様子です。一年に一度くらいですが、毎年先生のお宅にご挨拶にお伺いして、『元気のおすそわけ』をいただいております。
母に当たる方は、信貴山口のところで60年以上開業医をなさっておられる岡本シモ先生です。25年余り私の家族の面倒を診ていただいています。長男正光が生まれた頃、山本駅前で腕が良いと結構評判の小児科がありました。正光も何度かお世話になったのですが、どうも私の考えとはずれがあって、とうとうその先生と軽い喧嘩になりました。ある保護者のお勧めで、訪ねたのが岡本医院でした。正光が1歳半ほどで、それが岡本先生との出会いでした。診察室の扉の向こうで、妻のきよみが大きな声で叱られています。『怖い先生だなぁ』と思って、私は話に耳を傾けていました。先生のお話は確かにもっともな話なのです。『新米の親』である私と妻が気付かなかったことを教えていただけているのです。帰りの車の中で岡本先生が女医さんだと妻から教えられ、もう一度驚いたことをよく覚えています。
それから半年か1年たった頃、正光が夜中の1時過ぎに突然起きて、『耳が痛い!』と言って転げまわりました。当時60歳を超えておられた先生を、真夜中に起こすのは許されないと思い、電話で救急病院をいろいろ当たりました。八尾市には耳鼻科どころか小児科もなく、大阪中央救急病院に小児科がありましたので、後部座席に正光を乗せ、車をぶっ飛ばしました。昼間1時間はかかるところ、真夜中の高速道路ゆえ、20分ほどで着きました。翌朝岡本先生のところに診察に行き、事情を説明しますと先生は、『なんで電話してこなかった!私は毎晩2時ごろまでは起きています。この子は私の患者やないか!』と一喝されました。叱られているはずなのに、私は嬉しくて目の奥が熱くなったのを今でも忘れられません。診療所と自宅の電話番号を変えていたり、診療が終われば自宅とは別のマンションに居場所を変えたりして、必要な時に役に立たない医者が多い中で、『何と医者としての使命感に燃えられた方なんだろう』と思いました。『この先生に私と私の家族の命を託そう』その時、私はそう決心をしました。
私は医者ではありませんが、教育者としての『使命感』を忘れないようにしようと、岡本先生を手本にさせていただいています。正光は医師になって4年目、血管外科医としての道を歩んでいます。睡眠時間も十分とれないまま手術の執刀に追われている様子です。正光が医学の道を志すのに、私の無二の親友で無医村の医師として活躍していました大重宗比古君(過労が原因で47歳の若さで急死しました)や、幼い時からお世話になっていました岡本先生の影響が大きかったと思います。岡本先生も80歳半ばのご高齢ですが、97歳になります認知症の進んだ母の往診に、毎月お越しいただけるのが私としては楽しいひとときでもあります。
教え子が大人になってからも『先生』と思ってくれる先生が良い先生なんです、と京大の西村和雄先生が話しておられたことがありました。そういう先生を目指して精進したいと思います。
保護者の言葉
受験生を持つ保護者の気持ちを正直に書いていただいています。
『教室だより』の中からその一部をご紹介します。
先生方の言葉
光栄なことに、大学の先生や高校の先生に私の教室の授業を参観していただけるようになりました。そして、その感想文をメールにて寄せていただけています。先生方のお許しを得てここに紹介させていただきます。教室だよりでもご紹介していますが、フォトのところでその様子をご覧いただけたら幸いです。
須原先生とは、ほぼ1年半前にある英語研究会で知り合って以来、先生の教育観にはずっと関心を持っておりました。そこで、昨年末に思い切って、お電話で須原先生の教室を訪れたいという私の一方的な思いをお伝えしたところ、即ご快諾して下さいました。須原先生とは数時間ご一緒しただけですが、実にたくさんのことを学ばせていただきました。また、教育者としての私のこれまでの営みがいかに稚拙で皮相的なものであったかを悟る瞬間でもありました。
その日は「特別集中講座」というクラスを見学させていただきました。須原先生は最初に本日の流れをご説明なされただけで、すぐに下の教室へ向かわれました。このあと一体どうなることかと興味津津でしたが、生徒さん達は個々に黙々と学習しているではありませんか!誤解のないように申し上げますが、須原先生は生徒さん達を放っていらっしゃるわけではありません。生徒さん一人ひとりの自主性を完全に尊重されていらっしゃるだけなのです。このように子どもたちの学習に対する自主性を重んじ、学習内容の選択権を個々に与えることは、本人が学習に対して責任を負うことを意味し、このような学習を継続することで、自己の学習習慣や学習スタイルを省察したり、延いては、自律的な学習者へと導いていくものです。
教室での須原先生の役割は instructor (指導者)というより、facilitator(支援者)でありました。適宜、生徒さんに寄り添い、励ましやアドバイスを与えていらっしゃいます。生徒さんが勉強したいところを伝えると、即、問題が提供されていました(先生のパソコンには過去の入試問題から大手の問題集の練習問題まで実にたくさんの問題がインストールされており、一見の価値ありです!)。また、生徒さんと雑談されているお姿は、まさに fatherly/parental image(父親としての像)そのものでした。須原先生が生徒さんを自分のお子様のように愛し、また、生徒さんも先生に心から信頼をおいている様子を目の当たりにし、まさに「真の教育者」としての須原先生を感じ取ることができました。
須原先生は、ご自身の教室を「ここは、進学塾でも、補習塾でもありません。ここでは、子どもたちが自ら学習の意味を見出し、「分かった」という体験を積み重ねていくことを大事にしています。このことが、子どもたちを志望校へと誘うのです」とおっしゃっていました。このお言葉は、すべての子どもたちに潜在する「自己成長力」を信じて関わることの重要性を示唆するものです。
私は英語教育を専門としていますので、他教科のことはよく分かりませんが、「速読英単語」をひたすら英訳している、あるいは暗唱している生徒さんを拝見した時には、私が今教えている将来英語教員志望の大学生のどれくらいがこのタスクを達成できるだろうかとふと考えてみました。英語ができる子もそうでない子も「英語を話したい、英語が話せれば、かっこいい」という思いを抱いています。しかしながら、英語を話すためには相当のインプット量が必要となります。そのようなインプット量を確保するためには「速読英単語」は有効な教材だと思います。「速読英単語」のこのような活用法は、繰り返しを要する地道で退屈なものかもしれませんが、「確かな学力」の養成に通じることは間違いありません。将来、須原英数教室の子ども達が地球市民の一人として世界へはばたく時、きっとその恩恵を受けるはずです。
須原先生が強調なされていたことに、「国語力の育成」が挙げられます。思考の手段はやはり母語です。母語で表現できないことは、外国語ではさらに難しくなるはずです。こういった意味で、英語学習にもやはり国語力が必要となります。入試で英文和訳を採点するたびに、支離滅裂な日本語が多いことに失望させられます。自分が読んで分からない文章は他人が読んでも分からないのです。いくら英文の構造が理解できていても、その英文の内容を適確な日本語で表現できなければ印象が悪くなるのは当然です。和文英訳の場合にも当てはまります。難関大学の入試問題では、まずは日本語を解釈、分析することから始めなければいけません。小論文や面接にも確かな日本語力が要求されることは言うまでもありません。そのためにも、須原先生がおっしゃるように、新聞を読むことを習慣づけ、論理的思考力、批判的思考力を常に養っていくことが大切です。
須原英数教室では、高2の夏以降はクラスが無料で開講されています。しかも途中でティータイムもあります。この日は、女子生徒さんが皆のためにアイスキャンディーを持ってきていました。自己愛的傾向を示す子どもたちが多い昨今、また、経済的な変動が激しい昨今、須原先生のこのような教育実践は、他者の喜び、悲しみ、痛みをあたかも自身のこととして共感的に受け入れることができる「豊かな人間性」を持つ子どもたちの育成にもつながるものです。須原英数教室で学んだ子どもたちは、学力面の伸長にはもちろんのこと、情緒的な成長にもあずかっていると思います。
最後になりましたが、今回訪問の機会を与えてくださった須原先生に心から感謝するとともに、須原英数教室の益々のご発展と、須原先生ご夫妻のご健勝を心よりお祈り申し上げます。
その日は「特別集中講座」というクラスを見学させていただきました。須原先生は最初に本日の流れをご説明なされただけで、すぐに下の教室へ向かわれました。このあと一体どうなることかと興味津津でしたが、生徒さん達は個々に黙々と学習しているではありませんか!誤解のないように申し上げますが、須原先生は生徒さん達を放っていらっしゃるわけではありません。生徒さん一人ひとりの自主性を完全に尊重されていらっしゃるだけなのです。このように子どもたちの学習に対する自主性を重んじ、学習内容の選択権を個々に与えることは、本人が学習に対して責任を負うことを意味し、このような学習を継続することで、自己の学習習慣や学習スタイルを省察したり、延いては、自律的な学習者へと導いていくものです。
教室での須原先生の役割は instructor (指導者)というより、facilitator(支援者)でありました。適宜、生徒さんに寄り添い、励ましやアドバイスを与えていらっしゃいます。生徒さんが勉強したいところを伝えると、即、問題が提供されていました(先生のパソコンには過去の入試問題から大手の問題集の練習問題まで実にたくさんの問題がインストールされており、一見の価値ありです!)。また、生徒さんと雑談されているお姿は、まさに fatherly/parental image(父親としての像)そのものでした。須原先生が生徒さんを自分のお子様のように愛し、また、生徒さんも先生に心から信頼をおいている様子を目の当たりにし、まさに「真の教育者」としての須原先生を感じ取ることができました。
須原先生は、ご自身の教室を「ここは、進学塾でも、補習塾でもありません。ここでは、子どもたちが自ら学習の意味を見出し、「分かった」という体験を積み重ねていくことを大事にしています。このことが、子どもたちを志望校へと誘うのです」とおっしゃっていました。このお言葉は、すべての子どもたちに潜在する「自己成長力」を信じて関わることの重要性を示唆するものです。
私は英語教育を専門としていますので、他教科のことはよく分かりませんが、「速読英単語」をひたすら英訳している、あるいは暗唱している生徒さんを拝見した時には、私が今教えている将来英語教員志望の大学生のどれくらいがこのタスクを達成できるだろうかとふと考えてみました。英語ができる子もそうでない子も「英語を話したい、英語が話せれば、かっこいい」という思いを抱いています。しかしながら、英語を話すためには相当のインプット量が必要となります。そのようなインプット量を確保するためには「速読英単語」は有効な教材だと思います。「速読英単語」のこのような活用法は、繰り返しを要する地道で退屈なものかもしれませんが、「確かな学力」の養成に通じることは間違いありません。将来、須原英数教室の子ども達が地球市民の一人として世界へはばたく時、きっとその恩恵を受けるはずです。
須原先生が強調なされていたことに、「国語力の育成」が挙げられます。思考の手段はやはり母語です。母語で表現できないことは、外国語ではさらに難しくなるはずです。こういった意味で、英語学習にもやはり国語力が必要となります。入試で英文和訳を採点するたびに、支離滅裂な日本語が多いことに失望させられます。自分が読んで分からない文章は他人が読んでも分からないのです。いくら英文の構造が理解できていても、その英文の内容を適確な日本語で表現できなければ印象が悪くなるのは当然です。和文英訳の場合にも当てはまります。難関大学の入試問題では、まずは日本語を解釈、分析することから始めなければいけません。小論文や面接にも確かな日本語力が要求されることは言うまでもありません。そのためにも、須原先生がおっしゃるように、新聞を読むことを習慣づけ、論理的思考力、批判的思考力を常に養っていくことが大切です。
須原英数教室では、高2の夏以降はクラスが無料で開講されています。しかも途中でティータイムもあります。この日は、女子生徒さんが皆のためにアイスキャンディーを持ってきていました。自己愛的傾向を示す子どもたちが多い昨今、また、経済的な変動が激しい昨今、須原先生のこのような教育実践は、他者の喜び、悲しみ、痛みをあたかも自身のこととして共感的に受け入れることができる「豊かな人間性」を持つ子どもたちの育成にもつながるものです。須原英数教室で学んだ子どもたちは、学力面の伸長にはもちろんのこと、情緒的な成長にもあずかっていると思います。
最後になりましたが、今回訪問の機会を与えてくださった須原先生に心から感謝するとともに、須原英数教室の益々のご発展と、須原先生ご夫妻のご健勝を心よりお祈り申し上げます。
須原秀和先生へ
先日は授業見学ありがとうございました。
「今解き教室」を実際に見せていただき、現在の日本をとりまく諸問題だけでなく、世界中に視野を広げることによって、生徒一人ひとりが「今」自分が「ここ」にいることを認識し、なすべきことを考えるという思考の過程を養うという点で、非常に有意義なテキストと時間だと感銘を受けました。この授業は高校でいう「現代社会」と通じるものがあるだけでなく、さらに5教科の各問題とリンクさせており、そのテーマの最新の天声人語の記事や漢字プリントもついているという中身の濃い教材であることに驚きました。
しかし私はそれ以上に、奥様の授業の質の高さと深さ、温かさに感動しました。
一つのことについての説明に対しても、さまざまな具体例等を用いて、生徒が横断的、総合的に考えを広げる手段を提示され、そのまま生徒の素養となっている場面を見ることができた喜びは計り知れません。それだけでなく、私は先日の須原先生の講演会といい、奥様の授業といい、やはり授業に対する、そして生徒一人ひとりに対する「真摯さ」というものが教育者として必要不可欠なものであると改めて痛感しました。今後の私の教師人生において、今回の先生と奥様との出会いは、一つの転機となったと思っております。私も日々、目の前に生徒に対して誠実に向き合っていきたいと思います。本当にありがとうございました。
浪速高等学校中学校 国語科 竹村志津子
須原英数教室を訪問させていただいて
この度は、朝日新聞の『今解き教室』という教材に興味を持ったことがきっかけで、奥様の国語教室を見学させていただきました。『今解き教室』の問題は科目横断的なものが多いと聞いていたので、どのような授業が展開されるのか非常に楽しみにして教室を訪問しました。
今回の教材は『国際社会と日本の外交』を扱った問題だったので、国語と現代社会の授業をあわせてうけているような感覚でした。身近なことから世界的なことまで流れるような授業展開であっという間に90分が過ぎ、気がつけば自分も生徒の一人になってしまっていました。
授業後、奥様に「全身で先生の話を聞いている生徒の姿に感心させられました。」というと、「モチベーションの高い生徒が来ていますから」とおっしゃられていました。確かに最初から意識の高い生徒であったと思いますが、その生徒が意識の高さを維持しているということは、それを保つ教育が行われている証明であろうと思いました。
さらに、教室全体の意識の高さが他の生徒によい影響を与えているのを見て、もう一度クラス全体の雰囲気を作るところからやっていこうと思いました。
また、「授業準備のためにテキストを読んでいて、私自身が学ぶことが多い」というお話や自身の体験も織り交ぜて解説している姿を見て、よりよい指導するためには自己の知識・教養をさらに養わなければならない、もっと多様な経験を積まねばならないと再認識しました。そして、生徒の興味・関心の幅を広げるには様々な方法でアプローチしなければならないとも思いました。
今回の教室訪問・授業見学は、当たり前のことも含めて自分の指導方法を見直すいいきっかけになりました。そして須原先生ご夫妻の教育観に触れることができたことは、さらに教師として成長するいい機会になりました。
最後になりましたが、この度訪問の機会を与えてくださったことを感謝するとともに、須原英数教室のご発展と須原先生ご夫妻のご健勝をお祈り申し上げます。
浪速高等学校 国語科 伊藤 廉往