塾長の独り言
塾の日フェスティバル
2009-10-11
10月11日(日)社団法人全国学習塾協会主催の、第21回『塾の日フェスティバル』が尼崎のホテルで開催されました。
第1部の式典に続き、第2部の討論会では、京都大学経済研究所所長西村和雄教授が、「『分数ができない大学生』から10年」というテーマで基調講演をされ、その後西村先生と灘中学校・高等学校校長和田孫博先生と塾代表として私の3人が、パネリストになり『学力低下』についての討論会を行いました。200名を予定していた会場は一杯になり、出席者の顔ぶれの中には清風学園理事長・校長の平岡英信先生・東大寺学園前校長田中満夫先生・現校長矢和多忠一先生・大阪府立高校の進学トップ校の校長先生など、数多くの先生方のご出席があり、テーマに対する関心の高さを物語るものでした。私の教室からは、保護者の方や在塾生・卒塾生など30名ほどの参加者があり、遠方にもかかわらずお越しいただいただけでも嬉しいですのに、花束までいただき恐縮いたしました。皆様どうもありがとうございました。
討論会終了後、かねてから『私塾の歴史 百年史-学習塾団体 五十年史』(発行予定:平成23年3月20日)の編集委員を、私に依頼されておられました『調布学園』(調布市)塾長佐藤勇治先生にお会いできました。
さらに、第3部の懇親会では、フィンランドまで実際に足を運ばれ、その国の教育の実態を確かめて来られた『英進館』(福岡市)館長筒井勝美先生・四国でトップレベルを誇る指導をされ、真のエリートを生み出す実績を出されており、ご自身も『塾学会』の創設をされている『レーゼクライス』塾長三谷修司先生との出会いも、私にとりましては素晴らしい収穫でした。西村先生・和田先生はもちろんのこと、こういった塾の先生方とも、グラッサーが言う『温かい人間関係』を築けますように、これから努力したいと考えています。
討論会では時間の制約が厳しく、塾の代表として『塾教育』の提唱と、塾の存在意義と使命感を述べるに止まり、具体的な塾生指導の話まではできませんでした。懇親会の折、私のところに何人かの熱心な先生方が来られ、個人的にはお話しできましたので、その内容と討論会での私の発言を記載したいと思います。必ずしも当日の発言通りではありませんが、できる限り忠実に再現してみたいと思います。
塾の立場から、私は現在多くの塾が抱えている現状と、『塾教育』という新しい教育カテゴリーの提案という、2つの観点について話をします。
先ず、塾の現状ですが、少子化による毎年の入塾生の減少と、昨年来の経済的不況による退塾生や月謝の不払いの増加に、運営が難しくなっている塾が増えています。また、大学入試や高校入試に見られますように、贅沢を言わなければ進学できる状況が、『勉強離れ』『塾離れ』に拍車をかけています。学習指導要領や入試制度に起因する学力低下のほかに、このことが第3の学力低下の原因ではないか、と考えています。
具体例を言いますと、15年・20年程前には、『歴史のことなら任せてくれ』『生物のことならたいてい知っている』といった雑学の豊富な小学生が多くいました。『漫画日本の歴史』20巻ほどを10回ぐらい読んでいて暗記していたり、ドラえもんの『科学のせかい』『天体の話』などほとんど覚えているのです。知識の量も読書の量も豊富で、したがって作文を書かせても結構表現力も豊かなのです。最近はそのような子がめっきり少なくなったように思います。テレビゲームをする時間の増加と家庭での家族との会話時間の減少とが重なって、国語力の低下につながっていると考えています。
算数・数学では、『百マス計算でバカになる』という本を寺脇研さんが書いておられますが、少なくとも賢くはならないだろうと私も思います。図形の問題でも空欄の中に、平行四辺形とか合同条件といった、用語を入れるだけの問題が増えています。そのような条件反射的丸暗記的学習では論理的思考力は養うことはできません。やはり、図形の証明問題を試行錯誤しながら、粘り強く解いていくことによってこそ、筋道を立てて説明できる力=論理的思考力が養われ、大学で専門的な勉強を進める原動力になり、社会に出たときに『生きる力』になるのです。論理的思考力に乏しい忍耐力の欠ける子に、注意をしたり、勉強のレベルを上げたり、宿題を多く出すと、すぐに退塾します。保護者の方も子供の言いなりの親が多く、ブレーキをかけてはくれません。保護者の価値観も変わり、クラブ活動や習い事を勉強より優先する方が増えてきたように思われます。
公立の小学校・中学校の先生の中には、やはりおかしい先生もおられるのです。いわゆる『教科書馬鹿』と言われる先生です。『何でこれがペケやねん』という経験を、塾の先生方ならば何度かして来られたことと思います。また、これは八尾市の中学校で実際にあった話ですが、子どもが先生に質問に行くと、『君だけに教えられへん。えこひいきになる。』といって質問に答えてくれなかったそうです。その子の保護者は、『塾に行っていない子は誰に質問するねん』と腹を立てていました。こういった例が、塾を取り巻く現状です。
次に、『塾教育』について述べたいと思います。大阪に上宮学園という私立の伝統校があるのですが、10年あまり前、安井良道先生という方が校長先生をされておられ、お話をお伺いする機会がありました。『教師は教えることばかりでなく、師として尊敬されなければならない。教育は教えることばかりでなく、育てることもしなければならない。』と言われました。とてもいい言葉だと思い、私は今でも心に留めています。先生と呼ばれる以上は、学校の先生も塾の先生もしっかり勉強をして、その背中を教え子に見せる必要があります。それが教育の『教』の基本だと思います。
では、『育』の部分はどうか?和田中学校の元民間校長藤原和博先生と東京大学の教育社会学者の苅谷剛彦先生の対談を本で読みましたが、藤原先生のお話では『本好きのおばちゃんに図書室の管理を任せ開放したら、生徒は本を読むよりそのおばちゃんに悩み事の相談をし、第2の保健室のようになった。土曜寺子屋(ドテラ)で宿題を教えてもらっている大学のお兄ちゃんお姉ちゃんに、勉強以外の相談にのってもらっている。予想もしなかった社会教育の効果があった』という趣旨を述べておられます。公立中学校の学校教育現場ではめったに無いことかもしれませんが、塾、特に個人塾におきましては、そのような光景は日常茶飯事だと思います。進路の相談にのるばかりでなく、生徒や保護者の悩み事の相談にのり、更には生徒の言葉使い・礼儀作法や躾まで、多くの個人塾の先生はやっています。世間では塾は教えることばかりに目を向けられがちですが、『育てる』ことにも心を砕いているのです。
学校も塾もその原点は『寺子屋』でしょう。教える者と教えられる者とが心を触れ合う場が教育の場だと思います。塾は『家庭教育』の中から生まれ、民間校長によってその良さを『学校教育』に取り入れられ、今では『社会教育』の一翼を担っていると考えています。学校の数よりも個人塾の数の方が圧倒的に多いのです。もはや『塾教育』を無視することはできないと思います。学生の頃、塾で学んだ経験のある教育学者も出始めている頃です。是非『塾教育』について考えていただきたいと思います。
パネラーから対処策
教育者としてこれからどうすべきか
学力低下ばかりでなく、学習意欲の低下、勉強への動機付けの難しさ、西村先生が携わっておられるモラルの低下回復など、教育をめぐる危機的問題は数多くあることは、私も承知しています。しかし、私が最も心配しているのは、実は『優秀な頭脳の海外流出』なのです。これを食い止めなければ、将来の日本の発展はありません。今求められていることは、世界で活躍できる日本のリーダーを、一人でも多く育てることなのです。
2002年1月には東京大学安田講堂の公開討論会において、総合文化研究科教授黒田玲子先生が、当時東大は教養部を残している唯一の大学でしたが、教養教育を大切にし、東大は『真のエリート』を育成すべき大学であると主張されました。『優秀な人材の外国への流出は教育の空洞化を招く』と、その危機を早くも訴えておられました。
翌2003年、平岡英信先生が『人を「育てる」ということ』という本を出されました。先生は、大阪でトップレベルの大学進学実績を誇る清風学園中学校・高等学校の理事長・校長先生ですが、中国・韓国・アメリカの教育事情に非常に詳しい方です。その著書の中で、『日本には真のエリート教育が欠けている、世界のエリートはマナーに始まって、文学論をさせても経済論をさせてもレベルが高く、見事な教養人である』と、また更に、韓国では、超エリートの学校を作る教育を認める法案が、2002年4月に可決されたとも書いておられます。同じようなことを、『分数のできない大学生』の第13章・最終章で、慶応大学の牧先生と戸瀬先生が触れておられます。
2006年3月には、京都大学百周年時計台記念館にて、シンポジウム『「知」を育てる』が開かれ、パネル討論の席上、上野千鶴子東大教授もまた、『少子化による教育の危機よりも、むしろ頭脳の海外流出の方が深刻な問題だ』と警告を発しておられました。
このように、資源の無い日本に必要なのは、『人的資源』としての『真のエリート』の養成なのです。
我々全国学習塾協会のメンバーは、塾の先生としての使命感と塾の存在意義の向上という2つの視点から、文部科学省や教育学者・学校ばかりでなく、我々塾の先生だって高い次元から日本の未来の教育について考えているのだぞというアピールをしたく、今回このようなテーマで討論会を開催しよう、ということになったのです。そして、日本の高等教育を代表する京都大学から西村和雄先生と、初等・中等教育の日本最高峰である灘校から和田孫博先生をお招きして、コーデネイターを祖父江準先生にお願いした次第です。
では、学力の崩壊を食い止め、人間性豊かな『真のエリート』を育成するにはどうすれば良いのでしょうか。
西村和雄先生は1977年、アメリカから帰国された折、日本では校内暴力や家庭内暴力が社会問題になっていることにショックを受けられ、この状況を何とかしなければならないと猛烈に勉強されたようです。そしてたどり着かれたのが、アドラー心理学による子育ての理論と、グラッサーによる問題を抱えた子どもに効果的な選択理論だったと『学力の土台』という共著に書かれています。専門的なことは西村先生にお聞きいただくことにして、その本の第4章、柿谷正期先生の書かれている、グラッサーの選択理論について簡単に触れてみたいと思います。
グラッサーは『行動のほとんどは自分の選択なのだ、人間は内側から動機付けられる』と言うことを強調します。内的コントロール心理学といわれ、これを学校教育へ適用したものがクオリティ・スクールと呼ばれているものだそうです。
私はこの夏、この本に出会うまでグラッサーの選択理論の存在すら知りませんでしたし、100%その理論通りやってきたわけでもありません。また100%グラッサーの選択理論を支持するものでもありませんが、私が妻と二人で生徒を指導してきたこの30年間を振り返ってみると、グラッサーがいう上質の条件8個のいくつかを、知らず知らずのうちに実践していたように思うのです。私の教室の指導に、理論的裏づけがなされた思いで、この本との出会いを実に嬉しく思っています。
問題を抱えた子どもばかりでなく、家庭では、例えば反抗期を迎えた子を持つ親と子の関係において、また学校や塾では、先生と生徒の関係で、学習意欲を生み出し、自分から積極的に勉強と取り組む動機付けにおいて、役に立つ考え方ではないかと、私の経験上思えるのです。『学力の土台』第4章で柿谷正期先生が『温かい人間関係のある場所における自己評価こそが上質(クオリティ)なものが生まれる基盤』と主張されていますが、まさにその通りだと思います。『自分の人生の質を自ら評価し高める教育という視点』から、もう一度『家庭教育』・『学校教育』・『社会教育』そして『塾教育』を見直せば、人間性豊かな優秀な子が育つと確信しています。
以上が討論会の席上で私が述べた主な内容です。ここからは、懇親会等でお話したものを、自問自答形式で書いてみます。私の教室の普段の様子です。
10月3日の毎日新聞社説には、民主党の教育政策について書かれていましたが、その記事には学校現場の先生は、学力より学習意欲低下や動機付けの難しさを挙げている、とありました。私は、こちらから勉強しろといわなくても、生徒が自ら勉強しようという気になってくれたら、80%は月謝を頂いて良いのではないかと思っています。学習意欲を生むために、私は以下の3つのことを心がけています。
1.褒めること
生徒を褒めてやる事が基本だと思います。大人でも褒めてもらえば嬉しいのですから、子どもは尚の事です。ただ、褒めればいいというものではありません。褒める時とその褒め方が難しいのです。『巧言は徳を乱る』(論語)口先だけ上手くて実のない言葉は所詮内容がないから、秩序を乱し、信頼関係を乱すもとになる、と言う意味です。普段から生徒の一挙手一投足をよく観察しておき、『真心』こめて褒めるようにしています。生徒を直接褒めるばかりでなく、保護者にもそれを伝えます。わが子を褒められて喜ばない親はいません。喜ぶ親の姿に、その子は嬉しくなって更に努力してくれます。子どもは親を喜ばせたいのです。『先生は自分のことをよく見てくれている』と感じてくれたら、先生と生徒の間に信頼関係が生まれてくるのです。時間をかけてこれを積み重ねていきます。
これはグラッサーの『上質』の条件①『温かい人間関係の存在』に相当します。
しかし、現実は難しく厳しい。温かい人間関係を築き、信頼関係を維持することは大変な努力を必要とする。特に気をつけなければならないことは、こちらが、信頼関係が築けていると思い込むことだ。相手はわかってくれるだろうと思いながら話した冗談の一言が、生徒の心を傷つけていたり、良かれと思って行動に出たことが生徒や保護者を精神的に追い詰めていたりする場合がある。信頼関係ができているという『自惚れ』が原因だ。結局、手塩にかけて育ててきた塾生が、簡単に退塾してしまう。4・5年に一度味わう『まさか!』という、虚しく・つらく・腹立たしい瞬間である。
2.目的意識を持たせること
一つは『何のために勉強をするのか』
10歳から20歳あるいは25歳までの10年間から15年間は、その後の自分の人生を有意義に過ごすために、勉強をするべき時期なのです。植物で言えば将来花を咲かせ実をつけるための、肥やしみたいなものです。自分が一生懸命勉強したことを、社会に出たときにそれを還元することが大切なのです。人は自分の行いが、他の人の役に立ち喜ばれていることが嬉しく感じるもので、人生の幸せの一つです。だから勉強する必要があるのだ、と教えています。
二つ目に、では『自分の進むべき学校はどこか?どういう道に進みたいのか?』
私は、生徒諸君に『学校の授業』と『自分の勉強』を大切にするように指導しています。20人も入らない小さな教室で、中学生と高校生が『自分の勉強』をしています。時には小学生も交じって勉強をしています。先輩達の勉強をしている背中を見て、自分もやがてこうして勉強するのだなと感じるのです。クラブ活動で先輩が後輩の面倒を見、それを喜びとして後輩たちは先輩の言うことに従うように、先輩が後輩の質問に答えてやってくれます。高校や大学に進学した先輩達も時々教室を訪ねてくれて、学校や勉強の情報を提供してくれます。それが良い刺激になって進路決定の指針になっているようです。こうして目的意識を持った生徒は、『勉強しなさい』と私が言わなくても、自ら進んで勉強をするようになります。
これはグラッサーの提案している『共同学習』そのものです。『上質』の条件②『強制がない』事に当たります。
私の教室を辞めていく子は、入塾して一ヶ月か二ヶ月以内の場合がほとんどだ。高校生や私立中学生は『須原塾では、先生は何も教えてくれへん』と言ってやめていく。『何を勉強しても自由』ということは、何を勉強すればよいのかわからない生徒にとっては、難しい勉強方法なのだと思う。わからないところがあれば、生徒のそばに行って指導しているが、半年くらいはじっくりその生徒を観察し、性格や能力を見ている。その間に、保護者のわが子に対する勉強や躾といった姿勢なども多少把握できる。それから、その子に合った勉強方法を生徒と二人で話し合い、最もよい方法を考えるようにしているのだが、そこまで続かない。塾生が増えない原因の一つでもある。続く子はめったに辞めませんが…。
3.不安を取り除いてやること
先ず保護者の不安や心配を取り除く努力をします。
折角子どもが勉強する意欲を持ち始めたのに、保護者の心無い一言でその芽が摘まれるのが一番辛い。子どもが如何に気持ちよく勉強に集中するか、その家庭環境を作ることが大切だと考えています。
もちろん生徒諸君の不安や心配をなくすようにします。
よく生徒の話を聞いてやること。過去のことよりこれから先をどうするかに重点を置いて、その子にとってベストで具体的な方法を、生徒とともに考えるようにしています。
これは『上質』の条件③『自己評価から生まれる』に当たります。
問題はおとなしい性格の子だ。口数の少ない子は、何を考えているのかよくわからないことがある。気心が知れてくると、こちらが尋ねるとポツリぽつりと話してくれるのだが、それでも想像力をたくましくしないと中々会話が続かない。想像力がたくましくなりすぎて、むしろ相手を追い詰めてしまうこともないとは言えないだろう。専門的に心理学を学び、カウンセラーになったわけでもないので、私としてはつらいところである。
私の教室は講師を雇わず、妻と私の二人だけで30年余りやってきました。二人とも文系出身で、数学のⅢやC、物理や化学などは教えることができません。高校2年生からは私も妻もほとんど教えてはおらず、したがって高校2年生の2学期からは費用もいただいておりません。特別なことをしているわけでもなく、『学校の授業』と『自分の勉強』を大切にするように、生徒に指導しているだけです。それでも、東大・京大等の国公立大学の医学部医学科に1割以上の生徒が進学し、トップレベルの国公立大学にも半数以上の生徒が進学してくれています。確かに優秀な子もいますが、全部が全部そうではありません。ほとんどの子はむしろ真面目な努力家です。ではどうしてこのような結果が出るのか?私立中学校・高等学校の先生ばかりでなく、最近は公立高校の先生方も教室を訪問され、見学なさっていかれるのですが、生徒諸君が黙々と自分の勉強をしている姿に、信じられない思いで帰って行かれます。私もうまく説明ができなかったのですが、『学力の土台』に書かれているグラッサーの選択理論の8個の条件のうち、少なくとも3つが私の教室に当てはまっていたのだな、と今は考えています。教室の指導に、理論的裏づけをしていただけたようで、嬉しく思っています。その本の第4章を初めて読まれた方は、『そんなのできるわけが無い。理想論だ』と考えられるかもしれませんが、私には納得できるのです。
(『教室だより』第123号より)
学力日食論
2009-05-31
『生きる力』『ゆとり教育』『総合学習』といった言葉に代表される、『体験的な学習を重視』する立場と、『確かな学力』を主張する『知識重視』の立場との間を、学力観が時代によって揺れ動いている。(岩波ブックレット№578「学力低下」の実態)
1989年の学習指導要領で採用された『新学力観』は、児童・生徒の思考力や問題解決能力などを重視し、生徒の個性を重視するとしている。「社会の急激な変化が既習内容をすぐに古いものにしてしまう」という問題意識から、知識や技能を中心としていた従来の学力観に代えたものであった。それに伴い教師の役割も、旧来の『指導』から『支援・援助』の姿勢へ転換された。この『新学力観』に対する総括がなされないまま、これを是認し更に推し進めたのが、2002年度から実施された新学習指導要領の『生きる力』であるといわれている。ここでは学力の評価方法も改訂されて、学力を測るのにも、人間性や体力まで評価の対象となった。教師の主観や決めつけの比重が高くなり、テストで良い成績を取っても内申点に反映しない場合には、学習意欲を失う生徒が出るようになった。
『学力』を定義づけることは中々難しい。『学んだ力』なのか、『学ぼうとする力』なのか、文字の上からだけでも解釈が分かれる。教育の理想という観点から、あれもこれもと入れると、抽象的過ぎてつかみどころがない内容になる。テストの成績を学力とみるという観点からは、次元の低い・薄っぺらな学力だと非難を受ける。しかし、OECDの学習到達度調査いわゆるPISA調査の結果に大騒ぎをし、2007年度から実施されている全国学力テストから察すれば、文部科学省は『試験学力』を学力と考えているのではないかと思いたくなる。一方、教育学者の中には、学力を論じれば水掛け論になるからといって、学力の定義を棚上げにして、『学力低下』を論じる者もいる。
そのような中で、興味深い試みをされている教育学者がおられる。志水幸吉先生である。現在は大阪大学大学院人間科学研究科教授で、学校臨床学・教育社会学を専攻されているが、2002年10月5日東京大学公開講座で『小中学生の学力の現状』と題して講義された時は、東京大学大学院教育学研究科助教授だった。その講義の中で先生は、学力の構造というテーマに関して、『学力の樹』といアイデアを提示された。
それは、『学力を3つの要素(「A」「B」「C」)から成り立つものと捉え、「A学力」とは「知識・理解」にかかわる学力、「B学力」は「思考・判断・表現」、「C学力」は「意欲・関心・態度」にかかわるものをそれぞれ意味する。
これを「樹」のイメージで捉えると、「A学力」は生い茂る「葉」に、「B学力」はすっくと伸びた「幹」に、そして「C学力」は大地をとらえる「根」に相当すると考えることができる。これら3つの学力は、一体となって一つの学力の樹を形づくっている。…(中略)…教師や親といった周囲の大人からの働きかけは、太陽の光、あるいは地中の土や水にたとえることができる。図の両側にある矢印で示した2つの働きかけをバランスよく行うことによって、子どもたちの「学力の樹」は着実に大きくなっていくのである。』(公開講座講義要綱より抜粋)
学力そのものを具体的イメージで説明する、中々ユニークな発想だと思う。しかし、私は、学校教育とは違った『塾教育』の立場から、『井の中の蛙大海を知らず』の蛙の心境で、『学力』を考察し定義づけをしてみようと思う。結論を先に言うと、学力は『試験学力』すなわちペーパーテストで測られるものと考えている。しかし、それは偏差値至上主義などで非難を受ける代物ではないことを、以下に説明したいと思う。
わが子に『勉強をわからせたい』『よい成績をとらせたい』『希望の学校に合格させたい』などと願う保護者が、月謝を支払ってでも通わせるのが『塾』である。塾は月謝をいただいている以上、生徒の成績を上げなければ成り立たない。その対象は小学生から大学受験生までの初等・中等教育の生徒・学生たちだ。したがって彼らの学力は、『探究』・『感動』にウエイトがあるだろう大学生や大学院生・研究者に対する学力と、また、『生きる力』が核心にあると思われる生涯教育における学力とは、違っていてもいいのではないかと考えている。また、塾は「教える」ことばかりに世間の目が向きがちだが、『教』えることばかりでなく、『育』むことにも心を砕いている塾も多いのだ。『教』=学力形成を意味し、『育』=人格形成を意味すると思う。学力は『教』える方で捉えるべきであって、2002年の学習指導要領の学力評価方法のように、人間性や体力まで含めるべきではないと考えている。それはむしろ『育』の方で捉えるべきことである。
では『教』の領域で捉える、塾教育における学力とはどういうものか検討しよう。知識の量は学力に入る、理解力や思考力・判断力・表現力も入る、学習意欲もそうだ、というように言えば、反対する者はいないだろう。しかし、では逆に学力とは何かといわれればその輪郭が判りづらく、曖昧模糊としていて具体的にはとらえにくい性質を持っている。必要条件は満たすが、その上十分条件をも満たす『学力』の定義は困難を極める。そこで私は、必要十分条件を満たすが、何とも捉えにくい学力を、『太陽』に例えようと考えている。「太陽と死とは見つめることができない」と、17世紀フランスの文人ラ・ロシュフコー公爵という人が言ったそうだが、大空に輝く太陽の存在は認めることができても、子どもが画用紙に描くようには、くっきりと見つめることはできないのだ。本来の『学力』も、そのようなものではないだろうか。その輪郭を極めることは難しい。
ただ、新月が太陽と地球との間に入った時、我々はその太陽の存在をはっきりと見つめることができる。金環日食である。実際は、直径を比べても太陽は月の400倍もある大きさだが、目に見える感覚では、位置的なことから月と同じ大きさに見える。しかも、それは確かに太陽の一部分を示している。非常に狭義の定義づけだとは思うが、私は対象年齢を小学生高学年から大学受験生までに絞り、しかも試験の成績によって測れるものが学力であり、この日食部分がそれを表現していると考えている。これを名づけて『学力日食論』と呼ぶ。だから『塾教育』の立場からは、目に見える学力は『試験学力』だ、と言っていいと思う。保護者や生徒諸君には、わかりやすい定義ではないだろうか。もちろん、試験学力を学力と捉えるときには、注意すべきことがある。そこでは、試験によって何の学力を測るのか、ということが鍵になるからだ。知識の量を測るのか、思考力を見るのか、表現力を調べるのかなど、出題の意図と質が問われることになる。いま『学力低下』が論じられて久しいが、データに現れているのは『試験学力』である。本来の学力とは何か。中々難しい。だからこそ大学や大学院での教育学の研究対象として、存在し続けているのかも知れない。今後の研究成果に期待したいと思う。
(『教室だより』第122号より)
塾教育
2009-05-30
『塾教育』といっても聞き慣れない言葉かも知れない。私の知る限り、大きな書店の『教育』のコーナーに並ぶ書籍の、背表紙にも見たことはない。私が初めて身勝手に使っている言葉かも知れない。しかし、私は『学校教育』『社会教育』『家庭教育』というこれまでの教育範疇に、新たに『塾教育』というカテゴリーを加えることを提唱するとともに、今後の塾のあるべき姿について考えてみたいと思う。
そもそも塾は、家庭教育における学習面での補完という形で生まれてきたものであろう。それが実績を積み上げ、社会で認知され、今ではなくてはならない存在になってきていると思う。灘や東大寺などの難関中学校に合格するためには、2・3年塾に通って受験勉強をしなければ、まず合格は不可能に近い。中学校だけの学習で、レベルの高い高等学校に合格することも、かなり困難を極める。塾にも行かず東大や京大に公立高校から合格すればニュースになるくらい珍しい事だが、それはその子の能力や努力もさることながら、最近の公立高校が、私立高校や塾顔負けの勉強を学生に強いている効果もあるだろう。実際のところ、私立学校ばかりでなく塾不要を唱える公立学校の先生も、わが子は塾に通わせているケースが多いと思われる。『塾』の存在がなければ、もっと悲惨な学力低下を招いていただろうということは、容易に想像もつく。
塾にもいろいろな規模のものがある。1人から3人ぐらいの生徒を対象とする個別指導の塾、10名前後の個人的指導の塾、学校よりも多くの生徒数を抱える大手の塾、などである。また、指導態様によっても、受験塾や、予習や復習を中心とする補習塾、あるいはそのどちらの領域にも入りづらい独自の路線を進む学習教室、などである。このように様々な塾が存在する中で、その最大公約数的なものは何か、学校教育と一線を画するものは何か。それは『学習指導要領に直接縛られることがないこと』と考えている。塾の指導方針は塾自らが決め、保護者の方で自分の考えに合った塾を選択できるのだ。気に入らなければすぐに退塾することも可能であり、学校とはそこも大いに異なる点である。『学校教育』と教育の目的は同じだが、過程が違う。力のいる生徒には、時間をかけて繰り返し指導できることも、塾の良さであろう。指導者の力量によっては、指導要領の範囲外の学習内容であっても、あるいは範囲内のもっとレベルの高い内容であっても、これを指導しても文句は出ない。一方、指導要領に縛られない自由はあるが、保護者や社会のニーズによって、自然に淘汰されるのも塾なのである。
『塾教育』と言えるためには、『教』えることばかりでなく、『育』むことも必要である。塾、特に個人塾は、教え子の家庭との結びつきが学校のそれよりは親密だろうと思われる。学習面の指導ばかりでなく、子どもの躾や生活面あるいは進路などで、生徒諸君や保護者の相談にのり、アドバイスをする場合も日常的に多いからだ。塾でそれを指導することを、当然だと期待する保護者も増えている。少年非行を研究されている清永賢二先生は、『求められる子どもを「市民」にする教育』という中で、京都大学の西村和雄先生に次のような興味深い話をしておられる。『…核家族の中で親がどのように親になっているかということを見ていない子どもたちだったわけです。それがいま、親になってきている。マンションの鍵をあけて中に入って、お父さん、お母さんが帰ってくるまでじっと座ってテレビを見ている、そして余った時間は塾に行くという、その子どもがいま、親になってきている。だとすれば、私はもう家庭に教育力はないと思います。…私は代理親業のようなものが出てきてもしようがないだろうと思う。変にぐれた親よりも立派な先生とか、立派な地域社会とかに子どもを預けた方がいいのではないかと思ったりもします。』(西村和雄編『学力の土台』勁草書房P.66)代理親業とまでは言わないけれど、現在その一役を塾が担っているのは、確かなことではないだろうか。『家庭教育』に占める塾の存在は大きくなっており、『塾教育』と『家庭教育』には密接な関係が出来ていると考えている。
また、民間校長が5年前後の短い期間に実績を上げようとする時、その共通因数は決まって外部の力=『塾』を利用していることは、周知の事実である。和田中学校の元民間校長藤原和博先生は、東京大学の苅谷剛彦教授との対談で、『本好きのおばちゃんに図書室に来て貰ったら、読書好きの子が集うのではなくて、居場所がない子が集まるということがありました。おばちゃんが相談相手になってね。図書館がいわば第二の保健室になったのは、最初から期待したことではなかったんですよ。…「ドテラ」のお兄ちゃん・お姉ちゃんたちは宿題を教えているわけだけど、休み時間に自分の経験を話したりすることのほうが、よっぽど子どもと社会をつなげることに利いてくる。』(岩波ブックレット№738杉並区立「和田中」の学校改革P.98)と話しておられるが、まさに人間性を育む場の、社会教育の一場面であると考えられる。このようなことは公立中学校における『学校教育』現場では珍しい事なのかも知れないが、『塾教育』の現場では日常茶飯事であり、どこの塾でも程度の差こそあれ、実践されていることだ。塾は『教える』ことばかりしているのではないのだ。民間校長がしている学校改革には、公立学校内部からの教師自らによるボトムアップの改革ではなく、『塾教育』の良い面だけを取り入れようとする、したたかな計算が存在するように思えてならない。しかし、それは見方を変えれば、それだけ社会における塾の存在感が増幅しており、塾に対しても『教育に対する社会的責任』が求められる時代が、来ていることになるのだろう。これからはますます『塾教育』と『学校教育』・『社会教育』との連携が予想される。
自分が周りの人々に感謝され、信頼されて、役に立っていると感じられたり、また温かい家庭を築きわが子を育てるという、平凡だがこれもまた幸せな人生だと思う。『何のために勉強するのか』と尋ねられたら、私は『自分が学んだことを社会に出てから役に立て、人々から感謝され信頼されて、やがてそのことが自分自身の幸せにつながるから勉強するのだ』と応えている。このような考えを『教育』の基礎に置き指導する事が、『教』における狭義の『学力』と、『育』における『人間性』の豊かさを生み出すことに、有機的に作用しあうものと考えて『塾教育』を実践している。生徒の成長とともに、学力が人間性の豊かさに寄与し、人間性の豊かさが確かな学力を身につけようとする原動力になってくれれば、素晴らしいことだと思っている。
学びの原点は『寺子屋』だと思う。そこから塾も学校も生まれてきたのだ。教える者と教えられる者とが触れ合う場が、教育の場である。教師とは教えることばかりでなく、師として尊敬されなければならない。そのためには、先生は勉強しなければならない。その背中を見て生徒が育つからだ。『塾教育』という以上、今後それに携わる者は、その立場と社会的使命をより深く認識するべきであろう。自戒をこめてそう思う。これからの塾は『塾教育』の実践を更に推し進めるべきであるし、そのような塾が残っていくのではないだろうか。と同時に、『学校教育』『社会教育』『家庭教育』の従来型の3つの教育カテゴリーと関わり合いを持ちながらも、独自の新しい『塾教育』の分野を学問として考察するべき時期が、教育学の世界にやってきているのではないか、と考えている。
(『教室だより』第122号より)